「身体で言葉に触れてみる」尹さんの講座に参加し考えたこと
私は長らく、共感=善だと思って生きてきた。
友人と話しているときに「わかる〜!」と言われるとうれしいし、場の温度が少し上がる気がする。私も、まさに!と思うときは「めちゃわかる!」ってよく言っていると思う。
インタビュー中はもう少し慎重になる。「わかります」とは軽々しく言わないようにしているけど、話を聞く姿勢としては、「理解したい」と思いながら聞いているし、共感を示す頷くなどのボディーランゲージはむしろ積極的に使ってきた。
だけど、もしかしたらその姿勢って傲慢だったんじゃないかと今日思った。
相手は私ではないのに、相手の話を自分に寄せて、「共感できる」とか「共感できない」とか何かしらのジャッジをしながら聞いている。それってほんとうに「相手の話を聞いている」んだろうか。
たかだか数十年生きてきただけの自分の価値観でジャッジしない。相手の話を相手の話として聞く。他者を他者として迎え入れる。それが他者を尊重するということなのではないか、と尹さんは言う。
そして、最初の他者は自分の中にいるとも。
ままならない身体はまぎれもなく他者だったし、直視したくない自分も他者だ。他者だと思うと、もうちょっと丁寧に関わってみようか、という気になる。
意識のこと、時間のこと、主観と客観の関係。身体を使ったワークを取り入れながらたくさんのことを話してくれた。
子どもが生まれて身体が落ち着いたら、新たにボクシングをはじめるか、もう一度武道を習いたいと思っていたけど、今日の講座で俄然、武道に傾いた。
「身体を通さない自問自答はない」という言葉が、帰りの特急あずさの中でずっと心に残っていた。
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