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ナショナリズムを超えるために⑤教育について

2018-05-25 21:00:28
テーマ:政治

前回、「愛国心」はひとつの宗教として国民に働き、国民はその宗教を求めることについて書いた。そして、その宗教の核として用いられるのは、民族の歴史であり、その永い継続と強さがその宗教を強いものにすると。

それは、日本では日本「独自」の歴史であり天皇制である。中国では「中華」として、いろいろな他民族の支配も存続し続けた歴史と誇りである。アメリカでは、自分たちが国家を創ってきたという自負心である。多くのアジアの国が、日本と同じように独自の文化ーーそれは芸術として特に表されるが、言語で最も表されるーーを守ってきたこと、その言語を核とした共通基盤を愛国心の基礎にしている。イスラム国家では、まさに宗教そのものが核となり、国家内の少数民族にとっては言語が核となっている。

スペインのカタロニア、日本の沖縄、アイヌ、台湾の高砂族、朝鮮民族、インドネシアのアチェ・東ティモールに対する国の政策は、常に、国の中心となる民族と同一であることを要求した。それは、戦前の日本、現在の中国の方針と同じである。

そして、「想像の共同体」である国家を維持するためには、言語の同一化と歴史観の同一化が重要な働きをなすことがわかる。

現在の日本で、ナショナリスト(安倍氏を含む)が望むことは、一つの国旗・国家・日本独自の歴史性を表す天皇制と日本という国家への敬意である。実際、どの国でも「過去の歴史」を美しいものとして教育し、その国に属することを誇りとするように教育する。

それを行うのが教育である。

わたしは、明治政府を成立させ、それ以後の日本を創った薩摩の島津藩に三百年植民地とされ、蘇鉄を食べるしかない地獄を味わった島の生れであるからだろうが、明治政府以来の日本政府に好感をもったことがない。1609年から1868年まで、島津藩の資金のために砂糖きび栽培を強制され、他の植物を栽培することを禁じられ、砂糖を舐めると打ち首という三百年があった。その間に一揆は三百回以上あったが、全員死刑になり成功はしなかった。

だから、わたしは「過去の歴史」を美しいものと受け入れることはできない。それと同時に、そのような忌まわしい歴史をもつ国家を「愛する」と言えるのかは、永い間疑問であった。鹿児島県や日本に住むひとりひとりは好きであるが、日本国家となると疑問である。同様に、アメリカに住むひとびとは好きだがアメリカという国家は好きになれないし、中国に住むひとびとは好きだが中国という国家は好きになれない。

ここ二十年、中国の反日本の意識をうえつける教育について、日本は打つ手がなかった。昔、天皇の臣民としての教育を日本国民たちが受けた時と同じように、それを中国国民は受け入れる。外国は見守りつつ、いろいろな宣伝で教育があたえる印象を変える努力をするしかない。

同じ理由で、小林よしのり氏が過去の「美しい」日本を、天皇の性格、戦争で死んだ若者の手紙、いろいろな形で表現している。

わたしたちは、もうひとつ日本と似た歴史を歩んだ国を見ることができる。フランスである。

フランスは革命後、ナポレオン第一帝政、ブルボン王政復古、1848年の二月革命、第二共和制、とめまぐるしくかわり、1879年、革命から90年してようやく共和主義が安定した。その後の教育は下のような基本方針で行われた。
・7/14が建国記念日となった。
・ラ・マンセイエーズが国家となった。
・小学校で「愛国心」(同時に反ドイツ主義)を憶えるために、読本教科書が使われた。
・上の教科書を使って、「フランス語」以外の民族語を話すことに対して国民に嫌悪感をもたせた。

これは、内容としては日本という国家が行ったこととおなじである。

違うのは、アルザス地方でフランス語を話す人々は10%に満たず、1872年にフランス・ドイツのどちらの国籍を選ぶかと言う時、それらの人々はフランスへ移動した。これは日本が経験したことがないことである。しかし、それ以外のフランスが「愛国心」を教育するために行ったことは、日本が行ったことと同じである。日本の場合、それに、「反国家的」言動をおこなった者を罰する(死刑あるいはそれに近い拷問で人間性を壊す)ということを行った。

これは現在の中国・ロシア、多くの国で行われている事である。

教育・・・・・中国で、ウィグル地区の子どもを親もとから離して教育することがなされている。ソ連では、親の「反国家的」な言動を報告することは良いことだと奨励された、現在の北朝鮮の収容所でも、脱走計画を密告することを奨励する・・・・そして、密告した子どもの前で親を銃殺する。日本でも、戦前は、警察は拷問で傷ついた死体をそのまま家族に返し、ひとつの脅しの方法に用いた。

今、日本では新しい方針で教育がなされつつある。「愛国心」をもつための教育である。

さて、「愛国心」をもつことは良いことか、悪いことか。

サッカーやオリンピックで自国の選手を応援する心、それは愛国心を育てるために利用されるが、それは良いことではないのか? 違うのか ?

わたしは、国を愛することはしないと、自分の生れ故郷の歴史を調べた時はっきりした。国は、利益のために、言葉が少し違う、歴史が違う人々を苦しめることや殺すことをあたりまえに行うと思ったからである。私は、日本の政府が考える教育内容をそのまま受け入れることをしなかったことになる。

愛国心は善か悪か、それともどちらでもありうるのか、次回考えたい。

(2014.03.09)

4年前に書いたものだが、手は加えなかった。

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