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   以前、詩は中島みゆきの歌に負けるのではないか?と書いたことがある。 それは、ある雑誌での誌上対談で、同じ詩なのに自分たちの詩は中島みゆきの歌のように評価されないというような発言をし、吉本隆明が、能力があるのだから書けばいいではないか!と言ったことから思ったことだ。 しかし、詩と歌には大きい違いがある。 メロディー、リズム、映像すら歌にはついてくる。それらの力は詩と大きく違う。 アリアを詩と同じように文字にすると、アアアアアーアアアアアアーアアアアとなる。これがメロディー、リズムがつくと、わたしたちは澄み切った厳かな音楽として聴く。それに荘厳な映像がつくと華々しいものとなる。 中島みゆきはそれに意味を持っている言葉を加えている。 その前では、文字だけの詩は、枯れ野のようなものだ。 しかし、枯れ野のような文字だけの詩を書くしかないわたしたちは、その言葉にできるだけ深みを、あるいはできるだけ爽やかさを含ませようとする。和歌、俳句、詩はその与えられた枠の中で、何かに到達しようとする。 そして、文字だけという簡易さが好まれることもある。 詩は持たない者、メロディーや音質や音楽を付加する能力のない者の表現方法である。 そう思っているので、挿画あるいは写真を加える以外はしない。しかし、映画とバックミュージックを加えるひとは増えてくるかも知れない。 わたしは枯れ野の詩のままだろうけれど。

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