近くなる天国
今日は私の友人の葬儀である。申し訳ないが、私は葬儀場には行かず、自宅から彼のことを考えている。55歳くらいまでは、どこかで人生が終わると深くは考えていなかった。それがいまでは、天国の方が近くかんじる。彼ともまた会うだろう。
両親の最期の頃、二人が何を考えているか、もっと尋ねておけばよかったと思っている。
優しくしていても、相手の心の中は感じたり、考えたりすることはなかなかできないものだ。
若い頃からの友人や知人、特に重い病気をもった友人たちの心の中はわからないまま、表面的な印象で想像していただけだと思う。
今、私と会話する家族や友人たちが、私の心の中は理解していないが、わかったように思っているというのがわかる。ひとの心とはそのようなものだろう。
あっ、私の心の中をよく理解してくれていると私たちがかんじるのは、優れた宗教家、世界宗教の創始者のような既に歴史上の存在になったひとかもしれない。
優れた宗教者でも、生きているひとは、どうしても言動に肉の感覚がある。
中世の世を捨てた乞食僧には、肉体の強い生命力を感じられなかっただろうか。それもまだ疑問である。
枯れ枝のように眠れるものか、そのまま枯れ枝になれるものだろうか。いづれにしろ、この肉体は無くなるのだが。
今日火葬で骨と灰になる友人は、私より生き生きしてるように感じる。彼の肉体でなく、彼の声、振る舞いのなかの生命とでもいうべきものが、記憶に残っているからだろう。既に死んだ両親もまたそうである。
弱り、腐り、灰になる肉体よりも、生命の力がある声、表情、振る舞いが記憶に明確に残るが、その記憶に浮かんでくるのが霊なのかもしれないとか考えている。
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