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ナショナリズムを超えるために④何に惹かれるのか。

2018-06-01 20:21:57
テーマ:政治

【上は、戦前の日本の地図】


前回、民族国家と多民族国家での「愛国心」の違いについて、特にわたしたちが民族国家を求めていき、多民族国家は歴史の中でつくられるべくして、つまり、民族国家としての成立を計画しない地域で自然につくられていったと書いた。

多民族国家として、アメリカ・中南米の国々・シンガポール・インドネシア、そしてロシア・中国が考えられる。

ロシア・中国は、多民族の中のひとつの民族が権力を握り、ある意味では少数民族の同化あるいは自然同化するまでの減数つまり殺戮を行っている。また、シンガポール・インドネシアそして多くのイスラム国では、一つの民族が権力をもち、他民族の権利を制限している。日本もこのグループに入ると考えてよいだろう。

民族国家は、その民族の歴史・文化にナショナリズムの基があると考えられる。

多民族国家は、民族の歴史でなく、その民族の歴史も取り込んだ国家の歴史・文化にナショナリズムの基があると考えられる。アメリカの国民は、アメリカの歴史とその多民族国家の繁栄とを誇りとし、そこに愛国心の基礎ができる。・・・・ロシアと中国、そして多くの国が多民族国家が、各民族の国家を分離独立する前の段階か、国内での民族問題に悩んでいる。国内での内戦からユーゴスラビアのように分離独立する国もある。

多民族国家として存立継続が可能な国々は、いろいろな民族問題を国内問題として抱えながら存続するために民族をこえて協力する。みんなが国家によって守られていると思うからだ。

実際に国家が守っているのか、国民が国家をささえているのかはわからない。しかし、国民は、自分たちがささえる国家を、それなしには自分の生きる場がないと思っている。また、自分が属する国家をささえることは誇りだと思っている。

その時の国家はひとつの「宗教」として集団をひとつにしている。オリンピックで自国の代表選手の活躍に喚起し、国旗掲揚の時、表彰台に立つ選手にもらい泣きする。

多民族国家で、自由国民としての権利を許されていない民族は、オリンピックへの不参加を表明することで、あるいは表彰台での態度で自分が所属する民族の存在と不平等さを表現する。

しかし、その国家の支配権をもった民族にとっては、国家はひとつの宗教に近い。日本の天皇家への国民の思い、アメリカ国民の星条旗への思い、中国国民のなかで漢民族が漢民族であるということに持つ誇り、これらは宗教に近い。それを崇拝し、従い、命をかける、そして反対する国民は、昔の宗教戦争のように排除される。

アメリカの白人支配の現実ーー実際、白人だと思っていた人がDNA検査でアフリカ系人種だとわかり驚いているというニュースがあるが、それはそのことを示すひとつであろうーーヒスパニック系、アフリカ系、アジア系の人々へのヨーロッパ系白人の優性であるという、言葉にしない感覚が白人にあるのは確かである。日本人のなかに、他のアジア人より優性であるという感覚があるように。沖縄に派遣された機動隊員が、辺野古の基地建設反対で座り込みをする沖縄の人に「この土人が‼︎」と正直に心にあることを表したように。

もしかすると人間はなんらかの絶対的なもの、永続する(あるいは永続すると思える)ものを必要とするのかもしれない。仕えるべき何かを。神を失った近代のひとびとと現代人が頼りにしたのが国家だと言える。

すると、文化的に継続した歴史をもつ国、継続する元首をもつ国、自分がその一部を支えていると実感できる国の国民は、宗教と別に、国家と言う疑似宗教をもっていると考えても良い。ロシア内でのムスリム弾圧、中国でのチベット・ウィグル地区の漢民族への同化・殺戮と居住地移動による民族の減少政策は、国家という疑似宗教からみると、ひとつの宗教戦争ともいえる。

中国の朝鮮族は少ないために国家にとって脅威にはならないし、いつかは同化されると考えているだろう、なぜなら朝鮮族の背後には朝鮮半島という小さな地域しかないからではないかと思う。いざとなったら、軍事的に支配できる大きさである。日本のアイヌ民族・琉球のように。しかし、チベットとウィグル地区はまだ侵略して完全な占領政策が終わっていない状態である。日本の十八世紀の蝦夷と琉球と同じ状態である。チベット・ウィグル地区ともに人口が多いので簡単には同化されず、中央政府に反発する人民を全員殺戮するわけにもいかず、ヨーロッパの帝国主義が歩んだ道をこれから歩むことになるのだろう。プロイセンが、フランスとの戦争によって帝国を維持できなくなったように、フランスがやはり戦争によってインドシナを維持できなくなったように。中国が国力を戦争にそそぐしかない状態になるか、経済の崩壊で現在の軍事体制を維持できなくなる時、その時、ユーゴスラビアが分裂したように、インドシナが民族国家として分裂したように、中国帝国が崩壊する時ではないだろうか。

中国は歴史的に、政権を他民族が握っても、その官僚制と国家を維持し継続してきた。「中華」という宗教は中国国民に、特に漢民族には強い影響をもっている。日本、韓国、そしてアジアの国々が他国の占領、植民地の時代をすごした経験がある。アフリカ・中南米・中近東の国々もそうだ。これらの国々にとっては、歴史のなかを継続してきた文化をもつ国としての国への「愛国心」は宗教に近い影響力をもっている。また、ヨーロッパ・北アメリカ・ロシアの国々は一時的に他国に占領されたとしても、軍事的に独立を維持してきたという自負がある。たとえドイツのように敗北し一時的に占領されたとしても、一時的に四年間連合軍の占領があったが、それでもドイツはドイツとしての「愛国心」をもっていた。

こうして考えると、「想像の共同体」である国家の核には、民族の歴史があるように思う。国民が共通してもつ歴史である。

そして、それをもてない地域が全世界に残される。スペインのカタロニア地方、日本の沖縄、アフリカの多くの国々(国境が人工的にひかれたので、民族としての歴史としてまとまることができない民族をおおく含んで国家が成立した)。国家が考える「国の歴史」と一致しない民族の歴史をもつ人々、それを国は受け入れることができるか、それが「愛国心」が極めて強圧的になるかどうかの違いをつくるだろう。その強圧な状態が表れているのが、中国のチベット・ウィグル地区への政策であり、それは、戦前日本が朝鮮・中国に行った政策に近い。

わたしたちは、ひとつの国のいろいろな民族がもつ「民族の歴史」を受け入れる事ができるだろうか。「愛国主義者」を名乗る右翼が許せないのは、日本国民の歴史はひとつであるということを否定する現実である。沖縄であるし、在日の人々の歴史だし、長い歴史の中で同化されてきたアイヌの歴史である。それは、今の中国・ロシアに見られる「愛国主義」「国民同一思想」の強要と同じである。

わたしたちは、同じ国の国民が、違う宗教をもつこと、国に対して違う歴史観をもつこと、民族として違う誇りをもつことを許すことができるだろうか。自分が惹かれる歴史と違う歴史をもつひとを受け入れるだろうか、そこにナショナリズムを超える鍵があるように思う。

(2014.03.09)

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