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ナショナリズムを超えるために③民族国家と多民族国家

2018-05-11 22:33:30
テーマ:政治

設立の時から多民族国家としての形態をもっていた、もたざるを得なかったのがほとんどの近代国家である。

アメリカはその特殊な例になる。もともとの住民を隔離しつつ、ヨーロッパからのいろいろな国からの移民が新しい国家を独立させた。奴隷として強制的に連れて来られていたアフリカからの人々も、公民権運動と平等のための運動を通して国民となった。

もう一つの例は崩壊したソ連である。旧帝政ロシアの崩壊の後、多民族国家として成立した。その後、ソ連崩壊後、民族国家をそれぞれに設立したが、その民族国家もそれぞれに問題を抱えている。その一つが今回のウクライナへのロシア軍の進出である。崩壊したソ連はいくつもの国家に分裂した。それらの国家が、ソ連時代より民主化されたとは限らない。アゼルバイジャン共和国・ウズベキスタンのように、ソ連時代より強力な独裁政治政権がうまれた国もある。

ソ連の崩壊は、わたしには、第二次大戦後のアジアに似ているように思える。欧米の植民地だったアジアが、日本軍の占領・崩壊の後、いろいろな状況を抱えて独立した。ロシアのように多民族を抱えて一国家を設立した中国、民族ごとに独立運動を展開して独立した東南アジアの国々と朝鮮半島。東ヨーロッパの国々とアゼルバイジャン共和国・ウズベキスタンのような中央アジアの国々。

いづれの場合も、民族主義の国家と独裁国家をうみだした。

もうひとつ、似たような国家の成立のきっかけとなった歴史上の大きい変化がある。ナポレオンのフランス帝国である。フランスに占領され、小さな公国の集まりだった神聖ノーマ帝国は完全に分解し、プロイセン・オーストリアは屈辱と多額の賠償金を課されて、フランスの占領下に入った。

1807年、「ドイツ国民に告ぐ」の講演をフィヒテが行ったのはその時である。ドイツ民族によるドイツ民族の国家を語った愛国的スピーチである。

しかし、私が注意したいのは、この頃の神聖ローマ帝国のドイツ人の割合は20%で、プロイセンでもその割合はほとんど変わっていなかったということである。オーストリアを含む大ドイツ主義、プロイセンだけの小ドイツ主義が、1848年のパリの革命の時にも、どちらも主導権をもってドイツを統一することができなかった。それを明確に分けたのが、ビスマルクである。オーストリアの力を排除し、フランスへの戦争を準備し、電報一通(エルム電報事件:注1)でプロイセンの国民の排外主義・フランスへの敵意をあおり、フランスに勝利し、アルザスの割譲と多額の賠償金を得る。

結果、①ドイツ諸州の独自性はそのまま残った。
②オーストリアに一千万人以上のドイツ人を残したまままの近代国家の設立であった。(ヒトラーのドイツ・オーストリア連合の基はここにある)
③国内に多数のスラヴ系住民を抱えた。

ロシアの成立・中国の独立と比較すると、①③は一致する。中国にとっては、台湾を考えると②も一致する。

現在、ロシア系民族が生活する地域への軍事的支配をすすめるロシア、国内の漢民族の死支配に従わない民族を同化、あるいは浄化(殺戮)しようとしているのは、ビスマルク以降のドイツと似ている。

民族国家と多民族国家。現在でも、血統で国民とみとめる日本は、民族国家としての形をまもろうとしていると考えてよい。出生で国民と認めるアメリカは、多民族国家としての形を維持するだろう。

民族国家は、共通の言語、神話、文化をもち、ひとつの連帯感をもつ。そこで、言語がどれほど強い意味をもつか、文化が意味をもつか、そのことは今はかんがえない。その共通感は、それをもたない者に対する差別になり、そして、それは特攻にもなりうる。

そして、わたしたちはそれを「愛国心」と呼ぶ。アメリカのような他民族国家の場合、ひとつの国家に「属する」ということを共通感にする。

共通感覚・・・・言語、民族、所属、どこまでもわたしたちは共通感覚を要求する。それは排外主義が加わると大きくなる。どういう共通感があるのか、どこまでわたしたちは共通感に引き回されるのか、それは次回考えたい。

注1)スペインでは、1868年の革命で王位継承が問題となった。フランスはプロイセン王家によるスペイン王家継承はないという主張をした。それを知らせるプロシアの王から自分への電報を、ビスマルクは改竄し、「国王はフランスの非礼に怒り、今後フランスとは交渉しない」と発表し、国民の反フランスをあおりたて、戦争への道を進めた。

(2014.03.09)

4年前に書いたが、問題はまだそのままで、多分、人類はあと1000年は同じ問題を抱えていくだろうと悲観的に観ざるを得ない感じがする。

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