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ナショナリズムを超えるために⑥本当に良いのか?!

2018-06-08 20:35:27
テーマ:政治

前回、「愛国心は善か悪か、それともどちらでもありうるのか、次回考えたい。」と書いて終わった。

わたしたちが見る「ナショナリズム」は、黒船が開国を迫った時の「攘夷」、その後の「征韓論」そして「大東亜共栄圏」。「攘夷」については、清の植民地化を見て、独立国として存続するための「良い」ナショナリズムと見られている。その後の「征韓論」からのナショナリズムは、日本の帝国主義としてヨーロッパの国々の跡を追った自国の利益を求めての軍事的拡大であり、「悪い」ナショナリズムとみなされる。

ナショナリズムをどう考えるかは、幾つかの例をみるとわかる。
「ナショナリズムは近代の国民国家の思想である。近代の国民国家とは、『一つの民族が、独立国家をもち、その国の体制が国民主権となっていく』状態を目指す。」(『日本のナショナリズム』松本健一)・・・・松本健一氏は、ナショナリズムを超えるには、EUと似た形態をアジアでつくることと書いている。多分、ナショナリズムは「良い」結果をもたらさない、しかし、そのことを明確には表明できないのだろう。

松本氏は、独立するまでは「ナショナリズム」は善であるが、民族国家として独立した後には、悪となりうる、という非常に常識的な感覚なんだろう。これが多くの「ナショナリズム」の捉え方である。民族国家として独立するまでは必要で善、その後、他国への侵略や自国内の小民族に差別を行うなら悪、という考えである。

日本は、第一次大戦後の「対支二十一ケ条要求」までは善し、それ以後が誤っているという考えである。

しかし、西郷隆盛が「征韓論」を主張した時、西南の役以後に政府の中心になった人々は、その計画自体には反対しなかった。実際はもっと強硬路線を主張していた。福沢諭吉、大隈重信は同じ考えをもっていたし、ほとんどの民権主義者も、クリスチャンも、日本がアジアに支配権を拡げるべきだという考えをもっていた。この時で、松本氏の考えでいえば、日本は「ナショナリズム」を超え、「ウルトラナショナリズム」の帝国主義になっていた。

日本の侵略によって、東南アジアの国々はヨーロッパの国々の支配から解放され、民族国家として独立した。その後、同じ共産主義を掲げる中国・カンボジア・ベトナムが国境地域での支配権をめぐって戦争を行った。カンボジアでも中国でも、国内での虐殺が行われた。中国で三千万から五千万といわれる。カンボジアでは三百万が虐殺された。これは、ひとつの民族国家の中で、同じ民族に対してなされたことである。中国政府のチベット・ウィグル地区での虐殺は入っていない。

わたしたちは、民族国家は安全だと考えることなく思う。殺戮とは、ドイツがユダヤ人に対して行ったように、日本軍が占領地で非日本国民に対しておこなったものであり、ひとつの民族国家では起こらないと考える。

しかし、それは大きな誤りである。
ルーマニアのチャウシェスクの銃殺をわたしたちはTVで観た。人口二千万の国でおきた恐怖政治の結果である。北朝鮮・ロシア・多くの南米の国・アフリカの国の多くが、同一民族による民族国家であるが、その微細な違い・・・・・・農業で生きるか放牧で生きるか、その時の権力者のグループであるかが生死をわける。その最も明確なのは、ロシアであり、中国であり、北朝鮮である。ロシアと中国は少数民族を国内に残すことを許容する余裕がない。そうした瞬間、支配民族の内部まで反政府の動きがでてくるからである。それを徹底的に行っているのが北朝鮮である。

「ナショナリズム」そのものは良いとは言えないと言ってよいだろう。

良いか悪いかを別とするならば、世界の人間は、何らかの共通性で安心し、ひとつになるということである。その最初になるのが言語である。そして、実際には民族によってわけられる。そこで終わるのではない。同一民族内で、思想でわける。その上で政権をもつ者への忠誠度によってわけられる。

つまり、愛国心は、国民のひとりひとりにとっては、どうでも良いものだということである。

それよりも自分自身の命と生きることを考えるべきだろう。

朝鮮は日本の支配下、姓名をかえられ、神社と天皇を拝むことを強いられた。もし、わたしたち日本人が同様な事を強いられたらどうだろう。昔、ヨーロッパでカソリックとプロテスタントが命を奪いあった戦争と同じように、何を「信じる」かで人間は殺すことをよいとするのである。これが良い人類の歴史とは言えないだろう。

今、日本の安倍首相は「美しい日本」として、朝鮮戦争・ベトナム戦争での利益を得て成長する日本経済に生きる「三丁目の夕日」の「国民」を求める。それはもうあり得ないだろう。

安倍氏と松本氏に共通するところを、ふたりの本を読んでいて感じた時には、驚きと言うより落胆した。松本健一氏は評論家でなかったか。評論家なら、もっとすべてに否定的な眼で観る視線をもっているのではないか。

「ナショナリズム」は善きものか? 超えるべものか? 中国・ベェトナム・民主カンプチアの戦争からわかるように、ナショナリズムによる民族国家が成立したら、それで終わるものではない。

アメリカについて考えてみよう。民族国家でない自分たちの国家を、生れ故郷の誇りと別に自分が生きるアメリカという国への誇りと忠誠を同時にもっている。アイルランド・ドイツ・イギリス・スペイン・アフリカ・中国等多くの故郷、あるいは祖先の土地に誇りをもちながら、国家としてのアメリカに仕えることである。

アメリカがどうして、今のように多民族で存立できるか、これは、国家論を考える時、もっと視線を注ぐべきだと思う。そこにある愛国心は、世界の帝国としてのアメリカの正当化でありその帝国への誇りである。よってあらゆる虐殺、侵略行為が正当化され、アメリカ国民の誇りとなる。

『ナショナリズムの復権』で先崎彰容氏は、ナショナリズムが危険なわけではない、しかし、国民は頼るべき歴史あるなにかを必要とすると語る。さて、ほんとうにそうだろうか。先崎氏が語っているのは、アメリカがそうであるように「ナショナリズム」が宗教になるということを示しているのではないだろうか。

私が確認したかったのは、ナショナリズムは善悪の判断できない、するとしたら、その時のナショナリズムの現実的な動きがどうあらわれたかということだろう。しかし、・・・・イズムといわれるものが良いことはない。なぜなら、私たち人類の思想は、何かを否定するために語られる。現実化していないある思想が、ある世界を求めるとしたら、それは夢想になる。

ナショナリズムは、それをこえる視線で観ている時は善であるが、同じ視線で観る時は悪になるだろう。わたしたちは、国として民族をこえたところまで、いつ行けるだろうか。
(2014.03.11)

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