【雑記】”魔法”に騙されないで
ワールドベースボールクラシック(WBC)が6年ぶりに開幕し、連日試合が行われている。日本チームが連勝を続けていることもあり、ニュースで取り上げられることも多い。本大会は(マスク着用のうえ)声出しでの応援が解禁になったこともあって、コロナ禍以前のような盛り上がりの中観覧できるように感じている。
スポーツは面白い。その時、その瞬間で生まれる試合の流れや、それを生み出す選手たちの頭脳と身体を使ったせめぎ合いから生まれる見事なプレーは、見ている私たちの心を大きく揺さぶるし、感動し、身体の内から湧き上がるパワーをもらえて元気になる。それを「希望」などの明るい言葉で表現するのもうなづける。そういった前向きなパワーをもらえることは、スポーツの持つ良い点のひとつだろう。
コロナの全国感染者数も落ち着いてきたし、以前のように声出しで応援もできるようになったし、政府によるマスク外しも解禁アナウンスされたし、ようやくすべてが落ち着いて前のように明るい生活が戻ってくる……。とそんなムードが一部で感じられるのは私だけだろうか。
しかしながら、そういった展望はあまりに無根拠で楽観的なものである、と私は強く主張したい。これまで政府は新型コロナウィルスの感染予防に対して、有効な手立てを打つことはほとんどなかった。そもそも全数検査を諦め、感染の検査ですら、有効的なPCR検査の拡充をすることなく、判定の鈍い抗原検査にこだわり続けてきた。菅前総理はコロナウィルス感染爆発中にも関わらず東京五輪を強行したし、その後も罹患時の重症化の軽減程度の効果しかないワクチン接種の一本足打法にこだわり続け、マスク手洗いうがいという既存の感染症対策の啓蒙のみを国民に押し付けていた。検査体制の拡充、医療・看護の充実や補償、感染者の療養体制拡充など、本来政治がすべきことのあらゆることを放置し続けて、多くの感染者及び死者をこの国は出し続けている。異常事態であると、私は考える。
そのような最悪の状況であるにも関わらず、「もうコロナは落ち着いてきた」と感じてしまうのはなぜだろうか。それはそう感じてしまうような雰囲気づくり(空気を作っていると言い換えてもいい)が推し進められているからだ、と私は考えている。有効的な対策を打たずに、いわゆる「やってる感」を見せる為の施策に注力している政府は本当に最低なのだが、その「やってる感」に安心させられている人たちがあまりにも多いのだろう。実際TVCMや様々なSNS等で政府広報を見かけることは珍しくなくなった。
そういった「やってる感」に加え、スポーツや芸術、エンターテインメント等から得られる「熱狂」で心を満たされてしまうと、そこに纏わる諸問題に目を向けることが出来なくなってしまう、という点がこういった雰囲気に影響していると私は考えている。こういった「熱狂」や「感動」で相手の心を動かす力があるものを、私は”魔法”と呼ぶ。前述したように、それらは感動や熱狂によって私たちの人生に大きな潤いを与えてくれるものだ。しかしながら、それと同時に熱狂で心を奪われてしまい、起きていることの「細かい(そんなわけないのだが)問題点」に対して目を瞑ってしまう効力があることを、私たちは今一度思い出すべきではないだろうか。
スポーツ観戦や、音楽ライブ等での声出しが解禁されたが、それは別に新型コロナウィルスの感染対策が万全になったからではない。ただなんとなく感染者数が減ってきて「もう大丈夫だろう」という雰囲気になったからだ。そいうった雰囲気になるように、権力者が科学的な根拠なく決めただけだ。
現在、東京五輪で起きた汚職・献金に纏わる問題が次々と明らかになっている。現在捜査されているような問題は、開催前から問題視している人は少なくなかった。新型コロナウィルスの感染爆発中ということや、森元首相の女性蔑視発言等、多くの問題が噴出していた。
にもかかわらず、いざ開会式が始まって、ゲーム音楽が流れてきたら「感動した!」と話して、それまで問題視されてきた事柄を全部放棄してうっとりと五輪を見ていた人は少なくなかった。彼らの中では、もう東京五輪は終わったことなのだろう。「色々あったけれど、いい思い出だ」くらいのことかもしれない。けれども、その「色々あった」ことの中身は簡単に忘れていい物でもないし、今/これから先の私たちの生活や人生に関わる大きな問題ばかりだ。
”魔法”のもつ大きな力を自覚し、熱狂や感動による大きなパワーをもらいながらも、現在目の前にある様々な問題から目を逸らすことなく、考え・対話し、声を挙げて社会をより良い方に変えてゆくことをあきらめないこと。それが「大人」である、この社会で生きる私たちに今求められていることではないだろうか。
たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。