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eSportsよりも「縄のゲーム」を #ゲームゲノム #DeathStranding

NHKの「ゲームゲノム」と「デス・ストランディング」を終えた今考えていることをここに記す。

「棒」と「縄」

 「ゲームゲノム」では小島秀夫氏が「棒」と「縄」の話を詳しく話していた。棒と縄は人類が初め作って手にした道具である。棒は危険なものを遠ざけるために、縄は大切な人やものを繋いで守るために使われた。そもそも人間の腕・手が棒と縄の役割をしてくれている。握りこぶしを作れば相手を殴ることができる。掌を広げれば目の前の相手と握手をして繋がりあうことが出来る。掌や縄をあらゆる場面で使った「デス・ストランディング」にはその考えが至る所に顔を出していた。配送等様々なことを通じて人と人が手を取り繋がりあうことを実感することができた。

増え続ける「棒」のゲーム

「今みわたすと棒のゲームばかり」と番組内で小島氏は述べていた。「棒」のゲームがとても流行っているというのは私も強く感じる。APEXなどの対人シューティングや対戦格闘ゲームなど、いわゆるeSports界隈で取り上げられ盛り上がるゲームはほとんどが「棒」のゲームだ。そこではプレイヤーは互いを味方と敵に分けられ、戦ってスコアを競い、勝者が決まる。勝者が決まるまでの過程、すなわちお互いが殴り合ったり撃ち合ったりして戦い、その様子を見て観客たちが盛り上がる。eSportsの名の通りまさに、スポーツの盛り上がり方そのものだろう。プレイヤーたちがみせる常人では成しえない超絶プレイがゲームの勝ち負け(生き死にと言ってしまってもいい)を左右し、その一瞬一瞬の壮絶さを観客席という安全地帯から見続け熱狂する。熱狂はとても気持ちの良いものだが、その後に何が残るのだろうとふと考えてしまう。(執筆している2022年2月現在、日本国内は新型コロナウィルスの感染者が400万人を超えた)
「among us」に代表される人狼ゲームもまた「棒」のゲームと言えるかもしれない。そこでは「言葉」が棒として用いられる。互いの素性を隠し、自らを守りながら相手を出し抜く為、言葉を棒のように振るうことで敵対する相手を遠ざけて追放してゆく。とにかく、仲間内で集まって楽しむゲームにせよ、右を向いても左を向いても「棒」のゲームがそこにあり、それらを楽しむ人たちが増えてゆき、注目されているのを感じている。

「仲間」と「社会」

「縄」のゲームの大切さや重要さについて考える。そこにはeSportsで盛り上がるような興奮や狂騒は存在しない。代わりにそこに存在するのは「他者とのつながり」だ。
「デス・ストランディング」におけるプレイヤーと他者との繋がり方はとても優しく気持ちがいい。プレイ中に私たちはチームを組まない。また、互いに直接的なコミュニケーションも取らない。ただそれぞれ自らの足で歩き、ゆく先々で建築物を作る。そしてそれがオンラインに繋がることによって共有され、どこかでプレイする人の助けとなり、通りかかった土地にある建築物の姿を通して、ネットの先にいる互いの存在を認知する。誰かが架けた端に「いいね」をつけ、またその橋に出会ったことで私自身もまた誰かのために橋を架けてはしごを架けたくなる。
「棒」のゲームで熱狂する為には「仲間」が必要だ。友達のような距離感の。それは「社会」ではないもっと小さなコミュニティだ。小さなコミュニティの中では、お互いの距離はとても近く濃い繋がりになる。だがそういった「仲間」の距離感が負担に感じる人もいるだろう。私自身がそう感じるということもある。
私が「デス・ストランディング」をプレイしている時、ゲームをプレイしている世界中の人たちとつながっている感覚が確かにある。しかしながら、「棒」のゲームで感じるような「仲間」を見つけたことはない。ゲーム内でサム・ブリッジスが孤独に荷物を運ぶの同じように、プレイしている私も一人でゲームをプレイしている。
では「デス・ストランディング」のプレイ中に繋がっている他者とはどんな存在なのか。それは「社会」だ。「デス・ストランディング」の世界では、私たち一人ひとりが自立した個であり、一人一人の個を助けるために社会が構成されている。そしてその社会をより良くするために道路を整備し、建築物を作り、未開の地に歩みを進めることによって轍が生まれる。互いの建築物を補修して、整備する、そういった関係性がとても心地よい。

心に残るゲーム体験を

「デス・ストランディング」を説明する時、しばしば「配達のゲーム」だと評されることが多い。しかしながらその本質は、オンラインを通じて「社会」を感じ、「社会」とのつながりを感じることができるゲームなのだろう。「棒」で叩きあい熱狂し競争することは、その時その瞬間の興奮や快楽は得て多くの人たちと共有できる。しかしそれらは試合が終わってしまうと消えてしまう。どんなにその瞬間に熱狂ても、その場が終わってしまえば冷めてしまう。
「縄」のゲームはプレイ中もプレイ後もそのゲームを遊んだ感覚やその時の繋がりが深く心に残るものが多いと思う。「va-11 hall-a」というゲームがあるが、あのゲームも分類するならば「縄」のゲームに分類されるのかもしれない。互いに戦いあうのでなく、バーという場で話を聞き、時にはこちらが話し、ゆったりとしたコミュニケーションの中でつながることができる。客と店員という立場から付かず離れずのところで互いに向き合うことは、他者と繋がりながら、その先にある社会にもつながっているのではないか。
熱狂よりもつながりを。仲間という小さな繋がりだけでなく、社会という繋がりを。今この時代に私たちが問われているものは、「社会」とのつながり方、社会での自身の在り方なのだと思う。
「棒」のゲームだけなく、「縄」のゲームの盛り上がりをこれから先も期待したい。

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たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。