「ゼノブレイド2」が合わなかった人へ
2022年7月29日に「ゼノブレイド3」が発売される。これまで続いてきたゼノブレイドシリーズの集大成という位置づけになるようなので、今から発売が楽しみで仕方がない。
3発売が近いということもあって、他のゼノブレイドシリーズにも注目が集まっているのを感じる。特に「ゼノブレイド2」が盛り上がっているのだろう、新規プレイヤーがやってきたり、VTuberが実況プレイで取り上げたりすることも定期的に見かけるようになった。
「ゼノブレイド2」の物語はとても魅力的だ。自分の大切な人に「俺は君を楽園に連れてゆく!」と奮闘するレックスはとても清々しい好青年だし、彼が巻き込まれる世界の命運をかけた戦いとそこに関わる人物たちの因果や情念はとても重い。大切な人を、大切な物を巡るぶつかり合いの果てにたどり着くところをしっかりと見届けることは、私の人生において大切な思い出の一つとなった。
だがしかし、私はここで敢えて「ゼノブレイド2が合わなかった人」たちへ思いを馳せたい。そしてゼノブレイド2のどのような点が、多くの人の心を掴み、またどのような点が多くの人の心を離していったのか。そこを改めて振り返りたいと思う。
「えちえち」なゲーム
椎名先生のつぶやきを引用させて頂いた。(念のため記しておくが、筆者は椎名先生のこの呟きの内容を批判しているわけではない。これから論じてゆく内容をとてもよくわかりやすく表現されているため、引用させて頂いただけである)「ゼノブレイド2」は「えちえちなゲーム」と評されることはオタクの間では珍しいことではない。これはもちろんファンの方からは愛情を込めて、もしくは親しみを込めてそのような表現をしている。しかしながら「えちえちなゲーム」という言葉の意味を考えるとそれはけして微笑ましいものではないだろう。ここに関わる様々な事柄が、「ゼノブレイド2が合わなかった」と考えている人が生理的に合わなかった点だと私は考える。
「えちえちなゲーム」とは
「えちえちなゲーム」とはどのようなゲームか。ハッキリ定義されているわけでもなく、いわばオタクの中で(あからさまな表現をすることで)他者からの批判を避けるために用いられている用語であるが、ここで筆者がざっくりとまとめてみる。
「えちえち」とは、(過激さには程度があるにせよ)その場面や状況において必要ではない肌の過剰な露出や、性的魅力を過度に押し出す目線、もしくは性的興奮を伴う身体接触や突然起こる事故(いわゆるラッキースケベ)などが描かれることで、それを「見ている」側が”思いがけず”性的興奮を感じたり、性的な記号を読み取ることができる描写。
「ゼノブレイド2」をプレイ中に感じる普段の生活では感じない「えちえち」な違和感は、ざっくり表現すればいわゆるアニメオタクやゲームオタクたちが日常的に触れている表現・文化・慣習であり、そしてそれは彼等ならすんなり受け入れられるが、そうでない人たちからすれば違和感を感じ、ともすれば不快に感じてしまうものだ。次項からは、ゲーム内で具体的にどのようなものがあるのかスクリーンショットと共に解説してゆく。今回はストーリームービー内で描かれているものに限定する。
(念のために書くが、この記事の目的のひとつが「えちえちなシーンについての分析」なので、そのような描写と思われるシーンを抜粋している。その為「悪意を以てこのようなシーンばかり選んでいる!」という批判は一切当たらないし、そう感じたとしたらそれはあなたの歪んだ被害妄想である。)
膝枕の非対称的な描写
ゲーム序盤、衝撃の展開で飛ばされた先でレックスが目を覚ますと、そこには眼前の半分が埋まるほどのホムラの乳。そして知り合って間もないホムラがレックスを膝枕しながら甲斐甲斐しく世話をしていた。
なんでわざわざ膝枕を?そして膝枕をされていたことを描写するときに、なぜわざわざレックスの目線からカメラを回して目の前にホムラの乳が見えるようにしたの?という疑問が出てくる。
この疑問に対して、ゲームをプレイした人ならこう答えるかもしれない。「ゲーム後半では、成長したレックスが逆にヒカリを膝枕してあげているぞ」と。「その対比でレックスの成長を描くための布石だぞ」と。
しかしながら、当該シーンではヒカリの目線に合わせたカットはない。なぜレックス⇒ホムラの目線の時だけ画面の半分をホムラの乳で埋まるカットが描かれたのだろうか。
そう考えていると、オタクからこんな声が聞こえてきそうだ。「レックスだって男の子なんだから、ホムラの乳が目の前にあったら見るだろ!」とか「それまで気絶していたんだから、レックスは何も悪くないだろ!」とか。
端的に申し上げて、そのような批判は的外れであるし、そしてそのような態度こそが問題であると私は述べたい。(詳細は後述する)私が問いたいのは「なぜホムラの膝枕の時だけわざわざそのようなカットを挿入したのか」ということだ。そしてそれは「そのようなカットを挿入することで、メリットはどこにあるのか」ということに繋がっている。デメリットになるならば削除すればいいだけの話である。
観客という立場のビャッコ
考えられる答えは「ゲームをするプレイヤーがそのようなカットシーンを見ることが出来る(ことで喜ぶ)から」だ。つまりはプレイヤーへの「サービスカット」である。アニメや漫画でしばしば見られる「ラッキースケベ」という感覚に近いが、ゲーム内のキャラクターたちが自発的にエロシーンを求めたわけではなく、あらゆる行動の結果としてエロシーンが起きた、という体裁を整えることで、エロ目線のカットを挿入することが出来るわけだ。ここには「(主に)女性の身体をエロ目線でカジュアルに描写しても問題ない」というアニメオタク・ゲームオタクたちが長年親しんできた慣習・価値観が如実に表れている。
そしてそのグロテスクな思考がよく描かれているのが、ヒカリの夢遊病のシーンだ。
口調や態度がキツく不愛想なヒカリだが、実は夢遊病にも似た行動をとる癖があり、その結果知らないうちにわざわざレックスのいる男子部屋まで入ってきて、レックスの横に寝転がって添い寝をしていた。
オタクとしては「完璧でツンツンした態度をとる美少女が、実は大きな欠点を持ったドジっ子である魅力を描いたシーン」と捉えることが出来るのかもしれない。だがしかし、そのような魅力を描くのが目的だとしても、わざわざレックスの隣まで来て肌を近くに寄せ合うようなことをさせることまで必要だったのだろうか。
ここでも、結果としてプレイヤーは「眠りから目が覚めたら美少女が横で静かに寝息を立てている」という(本来なら恋人の関係性を築いてからでないと体験できない)ラッキーな体験をすることが出来ている。
ゲームの主人公(もしくは操作キャラ)はプレイヤーの意思が反映されるものであり、私たちはゲームプレイ中に主人公たちの体験を同じように体験することができる。すなわちこれらの「サービスカット」はプレイヤーが体験できるものであり、それを見て喜ぶプレイヤー(もしくは製作者)の為に挿入されたのだと考えるのが自然だろう。
巧妙に練られた「無責任」
「ラッキースケベ」というのは実によくできたものだと感心する。物語中のキャラクターは”不慮の事故”による”不可抗力”の結果として、エロシーンが生まれるわけなので、キャラクターたちの「下心」を問い詰める責任はない。さらに”不慮の事故”にたまたま居合わせただけなので、それを見ている視聴者・観客にも勿論責任はない。上述したビャッコの態度は件のシーンをみたプレイヤーの本音をよく表している。「思わぬところで大好物のエロを見れたことは嬉しいが、それは私が積極的に望んだものでは無いので、自分には何の責任もない。むしろ騒動に巻き込まれた被害者だ」という立場がとれる。「本音と建前」という言葉があるが、これらの「ラッキースケベ」はむしろ本来不必要なエロ目線を堂々と忍び込ませるための建前だと言わざるを得ないだろう。
もう一つ、代表的なシーンを紹介する。
ゲーム発売当初から物議を醸していた「かめあたま」のシーン。このシーンの建前としては「ビンタされて画面にぶつかることで、(モノリスソフトの主要メンバーがかつて製作した)ゼノギアスの戦闘導入演出を描くことができる」と「(下ネタに対して)意外と耳年増なヒカリだが、それを認めたくないためレックスを張り倒すというギャグを描く為」と言えるだろう。
敢えて何度でも問いただしたい。そのような建前を実現させるためには、このような演出が必須だったのだろうかと。そして私はここに描かれているような「安易に下ネタを取りざたして、それを見てケラケラ笑うこと」が、今までの私たちが感じているよりも、とても失礼で不快な行為であることを主張したい。これは発売当初の価値観よりも、この記事を書いている現在の方がよりその感覚を共有できるものだと思っている。
内省と考察が今こそ必要だ
このような話をすると、オタクからは「ゲームに罪はない!ゲームの悪口を言うな!」と指摘されるかもしれない。それは一部正しい、だが指摘のピントは大きくずれている。私が問題にしているのはそこではない。
「ゼノブレイド2」が好きなファンは自覚すべきだ。自分が愛するそのゲームの中に、先ほど述べたようなエロ目線の描写が含まれていること。そしてそのような場面を見た時に、自分がどのような目線で楽しんでいるのかを内省して問い直すことが必要だと私は思う。
「ゼノブレイド2」はCEROレーティングによって「CERO:C」とされており、その理由に「セクシャル」カテゴリに分類されている。とはいえ「CEROでしっかりレーティングされているのだから、何も問題ない!」と鼻息を荒げるのは違うだろう。ここで描かれていること、そしてそれに対して自分たちがどのように感じたのかをもっと注意深く観察し、自分たちの中にある価値観がどのようなものなのか、そしてそれはどのような影響を他人や社会に与えるものなのか、それをしっかり問い直し続けることが真摯なオタクの態度ではないかと私は問いたい。
敢えて言うが、「エロ目線のあるゲームが悪い!」のではないし、物語で起きたことに対してエロ目線で見ることをすべて非難しているわけでもない。私が批判しているのは「自分はエロ目線で作品を楽しんでいるのに、他者に『エロ目線で見るな!』と指摘された時に、すっとぼけて『このゲームはエロくない!エロ認定するお前がエロい!』という態度をとること」や「そもそも(主に女性を)エロい目線でみて、それを日常の中でカジュアルに消費してネタにすること」である。自覚し、責任をもって表現に向き合うことを忘れてしまうことは、誠実な態度とは言えないだろう。
良くも悪くも、「ゼノブレイド2」はまさに平成の空気・ムード・価値観の中で作られたゲームだとつくづく感じる。
来る「ゼノブレイド3」は、ゼノブレイドシリーズの総決算だと公式も発表している。日々様々な情報が明らかになっており、筆者も早く遊びたくてとても楽しみにしている。
そして筆者はこうも願っている。「ゼノブレイド3」では「ゼノブレイド2」で描かれたようなカジュアルなエロを楽しむ価値観がアップデートされていてほしいと。そう願いを込めて、今は筆を置く。
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たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。