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毎度のこと

おはこんばんちは、ぱっちです。

死ぬほどの筆不精が祟りました。2年ぶりくらいのnoteになっちゃった。たぶんものを書きたい気分じゃなかったんでしょう。それはそれでアリ。

今回は、そんな「それはそれでアリ」と思えるかどうかのお話をしようと思います。
読んでくれてる人、たぶん馬が合うからいつか盃を交わせたらと期待してます。


んで、なにが毎度のことかって話なんだけれども。

端的にいうと、「自分と周りとで、段々と気が合わなくなってくる」ということに対して。

きっと、僕も、私も、同じ経験があるって人は多いんじゃないかな。俺だけだったらどうしよう。めちゃめちゃ変な人じゃん俺。


最初にこんなことを考えたのは中学生の時だったことを覚えています。
勉強したりいろんなことをしていく中で、自分に蓄積された宝物と、それに教えられた価値観のおかげで僕はどんどんと変化していきました。僕にとって変化は恐ろしいものではなくて、自分を自分たらしめるものなんだと思います。それに気づいたのは最近の話。

中学校って、思えばとても乱暴なシステムで、多感な時期に「近くに住んでるから」ってだけで筋力も学力も価値観も違う人たちが同じハコに入れられるわけです。そりゃ合わなくなるのは自然なことかな、と。逆に今でも中学校の地元仲間とつるめてる人を尊敬したりします。形成した「絆」を絶やさずに生きていることに対して。


高校に入っても同じように、仲の良かった友人と気が合わなくなってしまうことはありました。

高校ってある程度考え方のレベルが似ている人が集まるので、仲間が多いように錯覚します。

でも、言い方を悪くすれば、所詮同じ箱庭に閉じ込められているので、1年生のときと3年生のときで変わらないってこともあり得るわけです。


僕は前述の通り「変化を絶やさない人生」が至高なので、学外の活動で得た仲間、経験、価値観がとても気持ちよかった。まだまだ自分が知らないことがある。まだまだ知らない自分がいる。それらを混ぜ合わせたら自分はどんなふうになるんだろう。気になって仕方がないです。



しかしながら、「そうじゃない人がいる」ってことに気づいたのもこの頃のお話ですね。



当時のことを振り返りながら考えてみる。


人間は、こと島国の日本に生まれた人間は、「仲間意識」が強いのだと思う。村八分という言葉があるように。
「僕ら同じ価値観で、同じ楽しみを持っているよね」という安心感を得ようとする。同質であることは仲間であること、仲間であることは敵でないこと。それは見えない証明書のように機能します。その証明書を持っていない人間、失った人間は、コミュニティから除外されなくとも、あくまでビジターとして扱われます。野次馬根性の興味はあっても、踏み込むのは怖いですものね。

だから、変化を好む僕みたいな人間は、よく「変わっ
ちゃった
よね」って言われるわけです。



いやふざけんなよ。


お前のために変わらないでいるとでも思っているのか?


自分と同質な人間で周りを固めて安心か?


それが本当の安心なのか?


などと思います。変わらないってことは深みがない。それってすごく刺激のないつまらない人生じゃない?とすら思います。あくまで個人的に、ですけれど。


ただ、この間興味深い文章を読んだんですよ。

「我々は今あるものの中から選ぶように設計されている

これ読んだときに、なるほどな、って思って。
つまり彼らにとって今まで通りの人生を生きているだけで、そこに疑問なんてない。むしろ、なんで僕みたいな人種に常に変化があるのが分からない。変化が舞い込んでくる生活なんて今までしてないわけです。


いや、まあ、そりゃそうですよね。

昨日と変わらず飯を食い、昨日と変わらずバイトしたり授業したり、そして昨日と変わらず寝床につく。
たまに息抜きで非日常を味わって、でも戻る“べき”生活がある。それが大多数なんだと思います。


そんな彼らに対し、僕は「少数派である誇り」しか考えておらず、裏側にあるものを見落としていました。

少数派であるが故に「孤独」がついて回るということ。それは慣れっこだったはずなのに、少し分かり合えたことが嬉しくて、失いたくないと思ってしまったんです。その瞬間があたたかくて、心地よくて、理解者がいる安心感を、ずっと味わっていたい。



そう。失いたくない


これが今の僕の最大の過ちです。


上に書いたように、僕らは「現状から選ぶ」ことがベースであり、それは僕にも薄っすらと残っている概念です。

だからこそ、いま、「失いたくない」と考えている。

つまり、自分の期待を他人に押し付けているわけです。

もっと解像度を高くすれば、この人たちとこういう生活をしたい。飲みや、笑いや、悲しみや、その他諸々の分かち合いをしたい。その世界観を相手に投影してしまっているんですね。

本来はその矢印は他人じゃなくて自分に向いていなくちゃいけない。


じゃあ、違いが明確になってきたいま、僕はどうすればいいんでしょうね。




わからんです。ずっとわからんから十数年悩んでいるんでしょうね。




でも少なくとも、「自分の表現方法」を変えなくちゃいけないんだと思います。
同じ目線で笑えなくなっても、何らかの変換コードを介せば擬似的に同じ目線になれるわけです。

「多面体としての自分」とよく表現されますが、変化とはつまり、その面数が増えることなんだと思います。だから似てるけれど微妙に合わない目線ができてくる。それはよくあることです。


以前読んだ文章には、こうも書いてありました。


人間関係とは、世界観の共有である。世界観が共有できた際に、孤独はいなくなる


ほう、なるほど。

たしかにそうだ。

他人が変わらないことが嫌なんじゃなくて、変わっていく僕の世界観が共有できなくなるのが怖いんですよね。


と同時に、ここに勝機があるような気がします。

「変化するということは、己の世界観の拡張である」と捉えてみる。

さすれば、世界観の共有ができないわけじゃなくて、足場がまた一つ増えただけ。もとの足場に戻って、一息つくくらいはできるかもしれません。


なんでそれができないんだろうなぁ。

きっと、まだ拡張しきれてなくて、例えばボクシングのリングに押し戻されるように、今までの世界観に戻そうとする力が作用してるのかな。「現状維持バイアス」ってやつですね。

こいつは悪魔の証明みたいなもんです。だから、拡張された世界観をしっかり形成するまでは誰もその存在を認めない。

認めたら、足を踏み出していない自身の怠惰のみが残ってしまうから。

ワイの尊敬するひともそんなことを言っていました。


けど、止まるわけにはいかないよね。
もう動き出しちゃったし。


拡張する世界の先に、僕と同じような人がいればいいな。


そんなことを思いながら、そろそろお米が炊けそうなのでほいじゃ。


みんなも暑さで体調壊さないようにね。



また今度。


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