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「青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき」に寄せて その3〜見る

「青山誠と学ぶ保育基礎講座〜保育の読む、書く、見る、対話する」に寄せて。
今回は、保育者が子どもを「見る」ことのきほん、について。

先輩から「子どもをよく見なさい!」と、よく言われた新人のころ。
そんなざっくりとした投げかけをする先輩も先輩でしたが、
こっちだって並の新人ではなく(下の下の下、もうゲゲゲ、です)、
幼稚園に就職してみたものの、実習にも行っていなかったから(大学では文学を学んでいたため免許は入職後に自分で取得)、
3歳と5歳の区別もきません。

歩いてくる子を指差して「あれは何歳なんですか」と園長に訊ねる始末。
「あれっていうのやめなさいね、5歳よ、あの子は」
「えー、もっとちっちぇーのがくるの??」
「ちっちぇーのって言うのやめなさい」
なんて問答があったくらいです。

「子どもをよく見なさい」と言われた私は、廊下を通りかかる子どもたちを右から左、左から右と首をふりふりただただ見ていましたが、
「…で???これがなんなの??子ども見てるんですけどーー!!」
と意味もわからないままに日々をぼーっと過ごしていました。

それでも幼稚園だから午前中はいわゆる「主活動」めいたものをクラス単位でやる必要があり、私も勢い込んでやってみることに。
「さあさあ!みんなで手をつないで風になろう!」と子どもたちに呼びかけると、「…ヤダよ、きもちわりぃな」と逃げていく…。

わけもわからず職員室に帰ってから、ベテランの先生に
「あのー、子どもをどう遊ばせていいかさっっっぱりわからないんですけど」と聞いてみると、
「あなたね、どう遊ばせようとか、そんなこと思っているからいけないのよ、子どもに遊んでもらいなさい。そうしたら子どもがどう感じてて、どの子がどういうものが好きで、とか子どもが見えてくるから。すべてはそこからよ」と言われました。

超絶シンプル、そんなことならできるわい、と勢い込んで、また現場に戻っていったのでした。

という昔話から、なにを言いたいか。
子どもを操作することのまえに、まず子どもたちの世界におじゃまさせてもらって、子どもという存在を、またひとりひとりの子どもをよく知ること。保育の始まりに、私は子どもと出会うことを教えてもらったのでした。

子どもを見ること、はそこから始まります。
八百屋も医者も大脳生理学者も発達心理学者も近所のおじさんも、
それぞれに子どもを見ます。

でも保育者だけがその見方がまるでちがいます。
決定的にちがう、といっていいでしょう。

八百屋も医者も大脳生理学者も発達心理学者も近所のおじさんも、
その子を「対象」として見ます。
「おー、近所の鈴木さんちの二番目の子だな、おっきくなったなぁ」
「この子の咳はこのままだと気管支炎になりそうだから、薬だしておこうかな」
「この子は3歳にしてはすこし言葉の発達がゆっくりかもしれない」
などなど。

保育者だけは、その子が見ている風景を見ようとします。
なぜか。
一緒に鬼ごっこをするから。一緒にカレーを食べるから。一緒に築山にのぼって、手をつないで春めいてきた空を見上げるから。
その子が感じている世界に共鳴しながら、その子が見ている世界を見ようとします。それが保育者の子どもを「見る」ということ。

ここからすべてが始まります。

そんなこといったって、ひとりで何十人も見ていてさー
そんなこといったって、園庭のなかでどこをどう見ていればいいのー
そんなこといったって、子どもは散ってあそぶしさー

次回は見ることの技術編を少し紐解きます。

優れた保育者は360度の視野を確保します。
後ろにも目があります。
えー?ほんと??
うそうそ、いや、ほんとw

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