Appendix III (山田晶への回答)

日本を代表するエックハルト研究者であった上田閑照は、その著『エックハルト』(講談社学術文庫)で、自らが対峙する「銀山鉄壁の研究」として西谷啓治の『神と絶対無』と並んで(自らの同僚でもあった)山田晶のトマス研究を挙げている。そして山田の「どうして無の立場の方が存在の立場よりも深いと言えるのか」という西谷批判を取り上げている。

私は山田の弟子ではないが、彼の研究姿勢から多くを学んできた身として、彼の西谷批判をとても大切なものと考えている。

山田はトマス研究者という立場から、西谷を始めとする京都学派の「エックハルトはトマスを超える思想を展開している」という主張を受け入れない。つまり京都学派がしばしば言う「エックハルトは誰よりも深い、つまりトマスよりも深い」という主張に異を唱える。それはさらにいうと、「京都学派の絶対無は、欧米の存在中心の哲学よりも深い」という京都学派的な考えへの反論である。

こういった京都学派への異論を前にして、上田は、どう答えたか。『エックハルト』を読めば分かるが、実は答えていない。彼は、山田が納得するであろうような仕方では、「エックハルトはトマスよりも深い」「無の立場は存在の立場よりも深い」ことを明らかに出来なかったのである。

自らの師である西谷の主張にとらわれて山田の異論を無視するのではなく、それに対応しようとした点は、上田の知的誠実さである。しかし結局のところ、彼は、西谷と山田の対立の間で、どちらが正しいという答えを出すには至らなかった。もちろん彼のエックハルト解釈は、明らかに西谷の解釈を継承するものである。しかしだからといって、山田の異論は間違いであるとも言っていない。無の立場の方が存在の立場よりも深いのだと断言することもしてない。つまり「無の立場が存在の立場よりも深い」という自らの主張が山田を納得させるだけのものであるとは思えなかったのである。

山田自身は、エックハルトの主張は、トマスの存在理解の「存在」だけに注目した結果生まれてきたものだと解している。つまりエックハルトの思想は、アウグスティヌスとトマスの思想のある部分だけを拡大解釈した結果、生まれたものだ、と考えるのである。これは、近年のエックハルト解釈でよく見られる主張を先取りするもので、山田の哲学史研究者としての目が確かなものであることを証するものだろう。

では、結局のところ、議論の勝者は、山田なのか。

そうではない。私は、西谷・上田のエックハルト解釈に与しないが、山田の主張にも与しない。どちらにも与しないが、「存在と無のどちらが深いのか」という問いには、明確に「無の方が深い」と答える。そしてこの議論は、山田をも納得させるはずである。いや、山田のみならず、どんな人でも納得するはずである。

拙著にある通り、「まったく何もないのか、それともそうではないのか」という問いは、ありとあらゆる存在に論理的に先行する。たとえ「存在そのもの」である神がいるとしても、その神の存在に対して、「まったく何もないのかそうではないのか」という「端的な無の是非を問う問い」は、論理的に先行するのである。つまり端的な無の是非は、(神をも含む)あらゆる存在に先行する。「深い」という言葉のニュアンスをどう考えるかは別にして、「端的な無の是非という問題は、あらゆる存在に先行する」ことは確かである(ありとあらゆる存在は「無ではない」ことを前提とするからである)。つまりこの問いは、最も根源的な問いであると言える。その結果、この問いに対する答えである「無ではない」という真理(私は、エックハルトの言う「神の根底」とは、この第一真理だと解している)は、一切の真理に先行する。つまり第一真理は、存在について言われるのではなく、無について言われるのである。

山田は、この議論に異を唱えるだろうか。少なくとも、これまでこの主張に異を唱えた哲学者はいないし、そもそも論理的に考える限り、この議論には異論の余地がないはずである。つまり異を唱えるならば、それは非論理的なやり方でしかありえない。山田は、非論理的な議論を展開したりはしないだろうから、この議論に納得するだろうと思うのである。

<いつも言うことだが、この議論は、非常にシンプルであり、哲学の専門知識をほぼ必要としない。そういう意味では「誰でも」吟味可能である。この主張に賛同しない人は、好きなだけ吟味すると良い。>






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