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思考から哲学へ

<<以下のテキストはすべて以前「哲学、ここだけの話」としてアップしていたものです!!>>

哲学と聞くと難解と思われがちですが、元々は「真理を愛すること」ですので、真理が知りたいと思えばそれが哲学の始まりです。ここでは、まず、哲学と呼ばれる「学問」ではなく、身の回りにある色々な「問題」を取り上げています。それぞれの問題を学者目線で捉えるとどうなるか。さらには、哲学という学問と社会の関わりなども論じています。世にあふれる哲学書の読み方の参考になれば幸いです。なお、本文は約十四万字、原稿用紙三五〇枚ほどの分量です。

<各章のタイトルに星が一つ、二つ、ついていますが、一つ星は、完全に一般向け、二つ星は、少々アカデミックな話題になります。二つ星は、哲学をいくらか専門的に学びたい人向けになりますので、最初は一つ星のトピックだけを読み進まれるのが良いでしょう。>

<哲学とは>☆

プラトン以前の古代ギリシアの哲学者達は、専門用語など使いませんでした。つまり誰もが使う言葉で哲学をしていたのです。言い換えれば、哲学は専門用語を知らなくても、従事可能だということ。とはいえ、その時代からすでに二千年以上の時が経っています。つまり哲学という学問にも二千五百年以上の歴史があるわけで、専門家である以上、その歴史を無視することは許されません。


ここには、専門家とそうではない人の壁があります。もちろん哲学は誰でもできる。それは誰でも数学に興味を持つことができるのと同じ。ただ、数学に興味を持てば、それでただちに「数学者になれるか」というと、これはまったく話は別です。人類史上、とびっきりの知性の持ち主達が、全精力を傾けて真理を探究してきたその歴史を無視して、「私は真理を探究している」という者がいれば、それはピタゴラスの定理を学んだだけで、現代の数学の難問に取り組めると考えるようなものでしょう。
だからハイデガーとその周辺だけを読んでいるような研究者は、哲学者を名乗るべきではありません。哲学研究者ですらない。そんな輩は、ハイデガーの研究論文すら評価できないのです。


日本の哲学の歴史は、もちろん明治に始まるのですが、そこで日本が学んだのは、古代ギリシアから始まる哲学ではなく、主にドイツ観念論でした。つまり日本人は、ソクラテスやプラトンについてろくな知識もない状態で哲学を始めたのです。これは、その後の日本の哲学の歴史にとって決定的でした。なぜなら、古代ギリシアが目覚めた「ロゴス(理屈・論理・知性・言葉)へのまなざし」が、彼らには欠けることとなったからです。

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