見出し画像

哲学、ここだけの話(強い言葉)

哲学の解説書を読んでいると、時々、不思議な記述に出会います。例えばエックハルトのあるテキストを引っ張ってきて、「彼はこう言っている」というのです。そしてそればかりで終わる。しかしそんな事は、テキストを読めば分かります。解説もしくは解釈をしているのだから、テキストの内容を、自分の言葉で人にわかるように説明するのが仕事です。ところが、テキストを並べて、こういうことが言われている、で終わる。

これは一体何なのでしょう。もちろんそうしておけば間違いはない。テキストを並べているだけですから、間違う余地がない。一応客観性は担保される。もちろん厳密に言えば、引用文の選択に書き手の主観が入るので、そのような仕方でも客観性は保証されないのですが、それが分かる読み手はあまりいません。

テキストを読んだことがない人に、ポイントとなるテキストを提示して、読む時間を節約してあげているのでしょうか? しかしテキストを読んでいることが前提の研究において、そんなことをする意味は何なのでしょうか? 解説というのは、テキストを並べることではなく、そのテキストを説明することです。つまり普通に読んで分かりにくい箇所を分かる言葉にする。

分かりにくい言葉があれば、それを別の言葉で説明し、論理に飛躍があれば、それを埋める。いずれの作業も、元のテキストにはない言葉を使うことになる。そして、それができないということは、テキストが理解できていないということです。ところが実際の本には、そういった「解説のないもの」がたくさんあります。単にテキストを並べているだけ。意外かもしれませんが、最近は欧米の、しかも比較的有名な研究者の研究にも、そういうのが増えている。

こうしたことが起こるのは、読み手がそういう「正しさ」を求めているからでしょう。変に書き手の主観が混じったものよりも、話がうまく繋がるようにテキストを並べてくれれば良い。読者のほとんどがそういうことを望むようになると、書き手も「本当の問題」に取り組まなくなります。「テキストを読んでいるだけではわからないこと」に取り組まなくなる。

その結果、どれだけ言葉を並べていても、事柄の理解には何の益ももたらしていないということが起こる。

そういう論文や著書の場合、言葉に力がありません。いや、権威を放りかざした強権的な強さはあるかもしれませんが(実際、そういう仕事を参考にする人も少なくない)、学問そのものに本当に貢献することはない。こういうことが一般化すると、学術書までもが全て入門書と化す。

どんなに多くの言葉を連ねても、そこには、その本人の言葉がない。己の主張がないからです。そういう言葉は、人を動かすだけの力がない。しかし読者はそれを望んでいるから問題にならない。

私は、講義に対する学生アンケートで、よく「言葉が強すぎる」と書かれます。自分の意見を押し付けすぎているとも言われます。しかしこれは不思議なことです。どんな講義であれ、そこに教師自身の考えが反映されているのは当たり前で、むしろそうでなければ、その授業が存在する意味がありません。(私は確かに自分の考えをはっきり口にしますが、それを受け入れろとは言っていない。「受け入れろと言っているのではありません」と何度も言っているのに、「主張を押し付けている」と言われるのです。)

もちろんそんなのは、今の日本では望み得ない建前です。現実には、基礎的な知識がない学生たちに、基礎的な知識、つまりは誰もが知っておくべき、「基礎的で一般的なこと」を教えなければなりません。学生も教師も、それが当たり前だと思っているから、講義は不偏不党の中立的な内容を語るべきだという話になる。そしてそれは、大学の講義だけでなく、書籍にも及ぶ。まずは客観的なことを教えろ、というわけです。無味無臭の、何の色もついていない「客観的な事実」を教えろと言う。

他方、これまでに私が書いた論文は、すべて明確な主張を持っています。私の友人たちは揃ってそれを「松井節」と形容しますが、ハイデガーの学会で発表すれば、ハイデガーに面と向かって異を唱えるようなことを話します。つまり挑発的なことを語ります。それどころか、拙著『存在の呪縛』は、従来の哲学全てに異を唱えている。では、その結果は?

今回刊行された拙著『神の放下、神の突破』では、従来のエックハルト研究全てが、彼の思想の核心を見誤っていると主張しています。彼の主張の核心はこれだと断定している。そう、「断定」している。断定するのは、その主張に確信があるからです。己の主張の正当性に確信がある。

そもそも自分で確信が持てないことを人に伝えて、それが説得力を持つでしょうか。自分自身で確信が持てて初めて人に読んでもらえるものになる。少なくとも私はずっとそう思いながら仕事をしてきました。最初の著書を出版するのに三十年以上もかかったのはそのせいです。

こうしたことは当たり前だと思いますが、実際の哲学書を読んでいると、そうでもない。ほとんどの文の語尾が、「だろう」で終わるものも少なくない。これをその書き手の謙虚さの表れと読む人もいるでしょうが、私には不可解です。

私が主に言及する哲学者は、パルメニデスとエックハルトですが、この両者の言葉は強い。とても強い。実のところ、自らの言葉が「神の発した言葉だ」と述べるほどです。それほどの確信を持って、その言葉は語られている。私は、彼らの言葉を伝える人間として、彼ら同様の確信を持って語りたいと考えてきました。だから、そこまで行くのにとても時間がかかりました。しかしだからこそ、私の言葉は強いものになる。

ところが、言葉が強くなると、この国ではまずいことになるようです。授業でもそうだし、著作でもそう。謙虚が一番という訳です。拙著を読む人の多くが、その言葉の強さに驚くようですが、それは裏を返せば、普段そういう強い表現に慣れていないということでしょう。

確信のない言葉をどうして著作として売り出したりできるのか、私にはまるで理解できません。自分の言葉に責任が負えないで、何が学者なのでしょう。何が学問なのでしょう。

もちろん私は不完全な人間です。ですから私の確信など、まるで当てにならない。しかし、「だからこそ」せめて自分自身、正しいと確信が持てるところまで考えるのです。

不完全な人間が、さらに不確かな、自分でも確信が持てない話を、なぜ公にするのか。私にはその方が、はるかに不誠実な態度だと思われます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?