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時評(長いものには巻かれろ文化圏)

外国のことなのに、ああすればよいだの、こうすればよいだのと口を出す人がたくさんいるようですが、この人達、自治って言葉知ってるんですかね。

それと、外国のケースを見て、日本の話をする人も多いのだけど、それぞれの国の事情が異なるのだから、全部をひとからげにして議論するのはナンセンスだということが分からないのも不思議です。

人権が何よりも大事、という西欧型民主主義が浸透していない日本という国の、ろくに西欧を理解してもいない連中が、自分たちの感情だけで言葉をまき散らしているのを見ると、どこまでこの国は落ちていくのだろうと思います。

私は、大学で比較文化だの異文化理解だのという話をしていますが、日本人を見ていて気づくのは、そもそも違う文化なのに、その違いすら意識していない人が大半だという事実です。

社会構造を一瞥するだけで、東アジアには「長いものには巻かれろ」という国民性を持つ国が多いことが分かります。これは裏を返せば、西欧には、そうではない国が多いということです。

「長いものには巻かれろ」という場合、「長いもの」とは、国家であったり、権力であったり、圧倒的な力であったりします。強いものには抵抗しない。いや、そもそもよほどのことがないかぎり、抵抗したことがない。

日本人は、自分たちが欧米人と同じ感覚で生きていると錯覚しています。異文化理解以前に、目の前にある異文化を異文化だと理解してもいない。民主主義も科学も異文化なのに、それを理解している人間は先生達でも稀です。

ヨーロッパの歴史、思想を研究していると、それが、どういう時代背景から生まれてきたのかが分かります。そう、民主主義も科学もヨーロッパが生んだ歴史的産物なのです。つまり民主主義と科学は、ヨーロッパという一地域から生まれた、その地域に特有の文化なのです。<ちなみに、こうしたことは、海外に長く住めば分かるというものでもない。>

私は、数十年前からずっとこう言い続けていますが、同じ事を口にしている学者をほとんど知りません。ヨーロッパの研究をしている人々が、この問題に気づかないのは不思議ですが、学者の世界ですらこうですから、一般人が、こうしたことを理解しているなどということはまず期待できない。

ヨーロッパの人間が口にする「人権」という言葉の重みは、ほとんどの日本人には理解できないものです。ましてやナチスの歴史を持つドイツ人にとって「人権」という言葉がどれほどの重みを持つか。

あるトピックについて何も知らずに話しても、それは意味を持ちません。今の日本で行われている言説のいったいどれだけが、ここに書いているような「最低限の知識」をベースにしているのか。それを意識していれば、自分に語れることが、どれだけ限られるかくらい分かるはずでしょう。目の前で偉そうに話している人間が、どれだけ無知なのか分かりそうなものです。

知性は、物事を理解する能力として、万人に宿っていると私は考えますが、そうした理解が、人を動かすものになるかどうかは、知性だけでは決まりません。何を大事に思うかは、それぞれの文化で異なるからです。そしてそういった文化は、その社会の歴史で決まります。私は知性を重視しますが、だからといって、すべての国が、同じ基準で動くなどとは思っていません。くどいようですが、それぞれの国にはそれぞれの歴史があり、それぞれ固有の事情があります。ドイツで起こっていることをそのまま日本に持ってくるのはナンセンスですし、逆もまた真です。

日本のテレビだのSNSだので、好き勝手なことをいくら言っても、海の彼方の当事者には何の意味もないのは分かりきっています。もちろん語っている人々もそれは承知の上でしょう。彼らは、海の彼方に届くことなんて考えてもいない。つまりそれは国内向けの自己アピールに過ぎない。他人の悲劇を自己アピールに使うことが、どれほど他人を愚弄することか、まるで理解していない。そしてこれは、そういった言説を受け取る者も同罪です。

私たちに何ができるか、何をすべきか、何を守るべきかを真剣に考えることの方がはるかに重要だし、有効性もあります。どうせ使うなら、まともなことにエネルギーを使うべきではないでしょうか。



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