appendix I (パリ討論における知性理解)

 エックハルトの存在理解、知性理解について論じる場合、そのパリ討論は避けては通れないテキストである。とりわけ、最終的に「知性は存在に先立つ」と主張する(第一回パリ大学教授職在任中の)第一討論は重要である。先の拙著(『神の放下、神の突破』)では、核心となる主張に影響がない上、かなりトリビアルな議論となるため、このテキストに言及しなかったのだが、エックハルトを論じる場合に大きなテーマとなる箇所なので、補足としてここにそれを論じておくことにする。

(なお、ここに残すのはあくまでも議論のアウトラインであって、個別のテキストを取り上げての論証は省いている。したがって、以下の説明の読者は、エックハルトのテキスト、つまり上述のパリ討論をすでに読んでいることが前提である。)

 結論から言えば、このテキストにおけるエックハルトの「神は知性認識するがゆえに存在する」という主張は、ドイツ語説教における「存在は神の前庭であり、知性こそがその宮である」という主張とは、似て非なるものである。と言うのも、この討論における「(知性によって根拠づけられた)存在」は、「神の存在」ではなく、「被造物の存在」だからである。つまり「被造物の存在は神の知性に基づく」(=「神の知性は被造物の存在に先行する」)というのが、そこで言われていることなのだ。しかしこうした議論は、少なくともその文脈からすれば、誤解を招くものである。なぜなら、この討論自身が「神において知性と存在は同一であるか」という、「神における存在と知性」を扱うものだからである。「神における知性と存在」を論じているはずなのに、いつの間にか、「被造物の存在と神の知性」という問題に話がずれている。エックハルトは、パリ大学の教授を二度も務めた学者であるが、こういった議論のすり替えとしか言えない説明が少なからずある。また、一連の話の流れの中で、概念を一義的には用いず、それぞれの文脈で異なった意味で用いる傾向も多々見受けられる。そういった概念使用の正確性において、トマスたちとは比較にならないことは認めねばならない。

 このテキストの冒頭で、エックハルトは、「神において存在と知性は同一である」と宣言する。そしてしばらくトマスの説明を取り上げる。それらはおおむね「第一原因である神は、それが第一原因であるがゆえに単純でなくてはならないので、両者が異なることはありえない」という理屈に基づく。これらは、当時のドミニコ会の公式見解といってよいものであり、ドイツ語説教に見られるエックハルト独自の見解——つまり「神において知性の方が存在よりも根源的である」という見解——とは異なる、当時の常識的な論である。議論がここで終われば、ドミニコ会の代表、トマスの後継者としての見解を述べただけということになっただろうが、そこからエックハルトのエックハルトたるゆえんが始まる。こうしたトマスの論を展開した後で、唐突に「神は知性認識するがゆえに存在する」という彼独自の論を始めるのである。どうしてこういう議論展開になるのか、状況を知らない人からすれば、不思議に思えるだろう。何しろ元々の問題は「知性と存在は同一か」であり、それに対するエックハルト自身の答えも「同一である」だったからである。そういった問題連関の中で、どうして「知性認識するがゆえに存在する」と主張する転換が起こるのか。まずは、その状況を説明しておこう。

 この討論は、そもそもドミニコ会の教授であるエックハルトとフランシスコ会の教授であるゴンザウルスの間で戦わされたものである。この二つの托鉢修道会はライバル関係にあり、神学の問題においては、ドミニコ会が神における知性を重視し、フランシスコ会が神における意志を重視するという対立がある。つまり知性ということがトピックとなる限り、この学派的対立が前面に出てくるのは自然なことなのである。とは言え、先のトマスに見られたように、ドミニコ会が知性を強調しても、必ずしもそこから(エックハルトのように)「神は知性認識するがゆえに存在する」と主張するわけではない。そこで一部の学者たちが見るように、エックハルトに対する新プラトン主義の影響が、こうした主張の背後にあるとする解釈が生まれる。新プラトン主義は、最も上位のありようとして一者ということを言うが、その次に知性を位置づけるからである。つまり知性は、あらゆる存在に対して上位にあり、その前提でもある。では、ここでのエックハルトは、そうした新プラトン主義の主張を繰り返しているだけなのだろうか。少なくとも、このテキストにおけるエックハルトは、こういった読みを肯定するように思われる。事実、テキストの中で繰り返しプラトニズムへの言及がされる。現実の存在に対するロゴスの優位が繰り返し確認され、ロゴスとは知性に属するものなので、知性は存在の根拠となるというわけである。

 パリ討論から伺われるエックハルトの知性理解は、確かに新プラトン主義のそれを踏襲するものである。つまりエックハルトの知性理解が、ここに見られるようなもので「しか」ありえないなら、ドイツ語説教における知性の強調も、新プラトン主義のそれに由来するものだと結論されてしまうだろう。問題はここである。

 拙著で繰り返し述べたように、エックハルトは、彼が継承した従来の思想を、独自の仕方で消化していく思想家である。つまり一方では、元の思想に比較的忠実な言葉を並べるのだが、それとは異なって独自の言葉を語る時には、元の概念の意味を大幅に変更して、彼独自の思想世界を現出させるのである。残念ながら、エックハルト研究者の一部は、こういった局面の異なり(移行)を意識していない。だから、(異なった地平での議論であるにもかかわらず)AというテキストとBというテキストに表れる言葉を、どちらも(同一の言葉だという理由で)同一次元で論じてしまう誤りを犯すのである。もちろんそういった誤解を生むのは、エックハルトのせいでもある。彼は、異なった次元の話をするときに、一々それを断らないからである。存在という言葉が、今、どの次元で語られているか。先のテキストと同じままなのか、それとも違うのか。それは、読者が自分で読み取らねばならない。ここが、エックハルトという思想家の難解さである。繰り返すが、エックハルトは、そういった議論の次元の移行を一々断らない。それが、彼の用いる概念の不正確さにつながっているのであり、逆に言えば、概念を厳しく一義的に用いないからこそ、そういった「議論の次元の移行」が可能となるのである。 

 エックハルトを彼に先行する思想群から説明しようという研究者たちにとっては、このテキストは格好のものだろう。彼がドイツ語説教で述べる「神における知性の優位」を、彼自身が新プラトン主義の言葉で説明しているように見えるからである。もちろん、図式的に見れば、知性の存在に対する優位は、新プラトン主義の図式である。こうした図式の同一性に基づいて、エックハルトは新プラトン主義者である、といった結論が導き出される。しかしそれはまだ、エックハルトを理解しようという私たちの結論にはならない。問題は、それが新プラトン主義の図式である、ということに終わるのではないからである。

 近年のエックハルト研究によく見られる事であり、さらに言えば、近年の哲学史研究の多くに見られる事でもあるのだが、Aという思想家の思想が、Bという思想の影響を受けていることを明らかにすることは意味がある。しかし問題は、その影響が、どのようなものであり、さらに、その影響を明らかにすることで、その思想家自身の思想理解にどういった変化が生まれるかである。つまり究極的に目指されるべきは、その思想の内実である。その思想が何を語っているかである。

 エックハルトの思想には、明らかに新プラトン主義の強い影響が見られる。しかしそれを言うなら、同じくらい強い影響がアリストテレスからもある。もちろん歴史的に言えば、この両者を一つにした『原因論』という著作の影響が非常に大きいのも間違いない。だが、こうした影響関係だけでエックハルトのすべてが、いやエックハルトの独自性が説明できるわけではない。拙著が強調する「エックハルトの独自性」(=エックハルト問題)を、多くの研究者が見逃しているのは、エックハルトの思想を、先行する思想、同時代の思想に解消しようとするからである。そこから説明しようとするからである。他の思想に解消できるなら、他の思想からすべて説明できるなら、そこに本物の独自性はないことになる。そうしたアプローチは、方法論的に見ても、その独自性を明らかにすることには向かわないのである。私はエックハルトの独自性を「神の放下の果てにあらわとなる『無ではない』という真理こそが、彼の言う神の根底である」と見ているわけだが、この結論は、新プラトン主義やアリストテレスをどれだけ読んでも出てこない。トマスやアウグスティヌスの思想のどこにも、こういった考えは見出されない。これらの思想家からエックハルトを説明しようとする試みは、私が出した結論への道を最初から閉ざしているのである。

 このテキストは、ドイツ語説教に見られる「神における知性の優位」とは似て非なるものであるが、それというのも、このテキストには、ドイツ語説教の「神の宮である知性」の鍵を握る「究極の放下(=神の放下)」が見当たらないからである。神の放下が見当たらないということは、エックハルトに独自の「無」が見当たらないということである。つまり、少なくともこのテキストの説明だけでは、彼がここで言う「存在の純粋性(puritas essendi)」が、「無ではない」という究極の真理の言い換えであることは分からない。それは議論の図式だけで言えば、トマスの言う「存在そのもの(ipsum esse)」「純粋現実態(actus purus)」と同じものであると読むことが可能となるからである。事実、近年のエックハルト研究には、「エックハルトの思想は、結局のところ、アウグスティヌスやトマスの思想と同じである」といった結論を述べるものが少なくないのである。

 以上。詳細なテキスト分析は、後日、何らかの仕方で発表する(場合によっては、こちらに掲載する)。

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