見出し画像

哲学、ここだけの話(「無」という言葉)

哲学、ことに東アジアの思想ということが言われるとき、しばしば強調されるのが「無」という語です。日本人は、基本的にこの語が好きですが、面白いのは、ヨーロッパのように、それをきっちりと規定しようとはしないということです。

私はまだインド思想における「無」については調べていないので、アジアの「無」について、しっかりと話ができるわけではないのですが、とりあえず大まかな話をしておきたいと思います。

中国思想で「無」ということが言われるのは、老荘思想とその影響下にある禅思想においてです。老子と荘子は、まったく同じ思想とは言えませんが、基本的な考えに共通するものがあります。そこでは世界の大本として無が語られています。つまり世界原理が無なのです。しかし原理とされるからには、それは何らかの意味で存在しています。では、なぜそれは「無」と呼ばれるのか。それは、形を持たないからです。私たちが認識するものには形があります。形があるから私たちはそれを認識できる。ここで言う「形」は、いわゆる三角形とか円とかいう視覚的な形に留まらず、性質なども含みます。たとえば水には決まった形はありませんが、認識できます。それがどういうものかは分かるからです。つまりここで言う「形がない」というのは、視覚的に特定の形を持たないということだけではなく、どういう形であれ認識できないものという意味でしょう。「無相」というのは、認識される形(=相)がないということ、認識できないものという意味になります。中国語で「世界原理としての無」ということが言われる際、それが意味するのは、こうした「無相」の意味だと考えられるのです。

禅が語る「無」については、それを言語化して良いのかという問題があります。「無」自体は、一つの言葉なのですが、それを言語で説明できるかというと、そもそも「言葉を立てない(不立文字)」ということが言われる禅なので、それを哲学的に定義する事は難しいと言わざるをえません。ただ、そこに「いかなる決まった形もない」という意味が含まれていたのは間違いありません。

では、ヨーロッパにおいてはどうか。日本人は(哲学研究者ですら)あまりこの点を意識しませんが、ヨーロッパ思想の源流である古代ギリシアに「無」という語はありませんでした。もちろん後代に「無」と訳されるようになる言葉はありますが、それは、私たちが「無」という言葉でイメージするのとは違います。と言うのも、古代ギリシアにおいて今の「無」に相当するのは、「存在しないもの」のことだからです。古典ギリシア語で「無」に相当するのは、「存在するもの(オン)」に否定を意味する(メー)がついた「メー・オン」なのですが、意味としては、「存在しないもの」になります。たとえばプラトンの重要な著作に『ソピステス』という作品がありますが、これがなかなか日本人には理解しにくい。いや、日本人に限らず、欧米でも、この著作はなかなか扱うのが難しいらしく、大きく取り上げられることがありません。

プラトンの著作である『ソピステス』は、ソフィストを本来の読み方で読んだものです。ソフィストとは、言葉を上手に操って、人を惑わし、動かす術を知るとされた人たちです。当時の上流階級、つまり政治家として高位にあった家柄の子息を、報酬をもらって教育する仕事に就いていた人々がソフィストと呼ばれていました。このソフィストが面白いことを言います。「この世に嘘など存在しない」と。なぜなら嘘とは、実際には「存在しないこと」、「実際にはないことを言うこと」のはずですが、「存在しないこと」とは、文字通り存在しないはずです。つまりないのですから、それについて語ることもできないはずです。したがって「嘘をつく」ということは起こりえない。こうした逆説を問うのが、この『ソピステス』なのです。この著作には、(後代がつけたものでしょうが)「存在するものについて」という副題がついているのですが、それというのも、そこでは「存在しないものを語ることができるか」が問題であったからです。

「存在しないものについて語ることができるか」という問いは、今の言葉で言えば、「無は語れるか」となるでしょう。しかし現代の理解では、ここで言われる「無」は、「形なきもの」であって、「存在しないもの」ではありません。日本語や漢語文献で「無」と言われるとき、そこに「存在しないもの」という意味が含まれていることはないように思われます。したがって、私たちが「無は語れるか」という問いを耳にしたときに、プラトンのような理解をすることはないということになります。

こうした「存在しないもの」という「メー・オン」について、きっちりと規定したのがアリストテレスです。彼は、どういうものが「メー・オン」と呼ばれるかをきっちりと数え上げていますが、ここではそうした規定が存在するということを指摘するだけにしておきます。

ともあれ、無の理解において、ヨーロッパとアジアで、決定的な差異があるということです。「無」というのは、思想の歴史の中で決定的に重要な語です。しかしその重要な語の理解において、欧米と東アジアでは決定的な違いがある。不思議なことに、思想の研究という舞台において、こうした差異が明確に論じられている業績は存在しません。いつも私が言うことですが、「無」を真面目に扱う研究は非常に少ない。欧米の哲学を研究している人々ですら、こうしたヨーロッパの「無」についてまともな知識もありません。こうしたずれは、たとえば京都学派の語る「無」の理解に大きな影響を及ぼします。京都学派の無は、古代ギリシアの無の含意をまったく視野に収めていません。それはまた結局のところ、欧米の思想が語る「無」とのずれを生み出します。

西田達が、こうしたギリシア的な無について無知であったのは仕方がないにせよ、その孫弟子達が、いまだなお、こうしたずれを意識していないというのは驚くべき事です。「西洋は存在の立場、東洋は無の立場」という言い方を、いまだに引きずっている日本人がいるのは驚くべき事です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?