好きへの解放
コザで開催されている工芸フェアに、昨日と一昨日行ってきました。(※今日までやってるよ)
初日に一目惚れして手に入れた、いかにも実用的じゃなさそうな、取っ手が珊瑚みたいなマグカップ。
家に帰ってながめていたら、どうしてももう一個欲しくなってしまい、翌日もまた息子をぶら下げて出かけ、心ときめくままにあれやこれや手にとっていたら、握りしめて出かけたへそくり2万円が消えていました。
並べると浮き上がる好みのトンマナ。そういえば子どもの頃から私はこんな色合いや柄が好きでした。
でも、自分の好みに忠実なものって実は身の回りにあまりない。
与えられたもの、もらったもの、親の理解を得られるもの。好きな人が好きなもの、憧れの人が持ってるもの、人からセンスを褒められそうなもの。予算に合うもの、お買い得なもの、コスパがいいもの、リセールバリューが高いもの。自分に似合うもの、住んでる家に似合うもの、既に持ってるものに似合うもの。
そんな枠組みにあてはまる、嫌いではないけど必ずしも好きなわけではないもの、好きを妥協した選択の結果が長年かけて集まると、もともとの自分の「好き」からはいつの間にかかけ離れたところにいて、なんなら自分に好きなものがあったことさえ忘れて、何ら不満なく生活してる。してきたんだなあと。
大人になって、自分でお金を稼いで自由が増えてきたはずなのに、不自由な時代の選択の結果に飼い慣らされて失っていた欲が再燃。
好きなものを手に入れると、もっと欲しくなるし、上手く写真を撮れるようになりたいと思うようになるし、こんな食器が似合う家に住みたいなんて思うようになるなんて。芋づる式に欲が湧いてくる。
若い頃は、欲が多くても叶わなくて苦しいからないことにしてきたけど、これからは欲が活力になる予感。大人最高。ありがとうコザ工芸フェア。
(今日も行くかもしれない。)
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