理屈っぽい
ぼく個人、傾向としては理屈っぽい方だと思います。
(兄は直観という言葉が好きだった気がします。直観的であるかということとは別かもしれませんが。)
”考える”という行為の中では、理論や法則、仕組みというような、無機質なものを強く求めることが多いです。
公正さ、公平さがなければ納得できませんから、そうした万人に対応するシステムのようなものを一旦ちゃんと構築して当てはめていくことが重要なことであると考える傾向が強いです。
また、自分自身あまり賢いタイプではありません。
テストで良い点が取れるというタイプの賢さというよりは、「上手くやる」ができるタイプの賢さを持っていません。
(テスト系はそれなりにいけるはず。多分。)
融通が利かないというか、柔軟性がないというか、アレンジというものがどうも苦手です。
だから、言葉で示され規定されていないとわからないですし、ファジーな部分をくぐり抜けるもしくは功利に繋げることが中々できません。
(ファジーな部分で得をするという行為に若干の抵抗を感じてしまうという気質的な部分の影響も多少はありますが。)
できないことに加えて、そのファジーな部分の影響で損をする、誰かに先を越される、みたいなこともものすごく嫌です。
だから、その賢慮のなさをシステムにフォローしてもらいたいと強く思ってしまいます。
これは基本的に小さな者の視点なのだろうと思います。
それは、能力がないということだけなく、何かしらの結果に対して優劣を勝手に感じて、劣等感を自分で生み出してしまうという精神的な脆さも含めての弱さ、小さな者の視点です。
自分に小ささを感じるが故に、システムという冷たく硬いものを強く求めることが多いです。
ただ、求めるものは無機質なモノである一方で、「情動」とか「繋がり」とか、そういう有機的なものを好んでいる自分もいます。
すごくすごく尊いと思います。
システムは公正公平で万人に対応するものであろうとするものではありますが、やはりそこに完璧なものはなくどこかで掬い上げられないものが間違いなく出てきます。
(科学が反証可能性を条件としているような感覚に近いかもしれません。それは設計に不備があるとかじゃなくシステムとはそういう性質なのだろうと思います。)
システムが対象とする”万人”という人は実際には存在しません。
システムは”個別性”を排していきます。
実生活は”個”で溢れていますから、目の前の人と向き合っていくのが何より大事です。
それは有機的な営みだと思いますし、それが冷たくなればなるほど生きていくのが苦しくなります。
人と人が温かいというのは、本当に尊いし素晴らしいことだと思います。
ただやはり、”個”と”個”の関係性だけで物事が進むとなると、お互いの力関係や本人の意思ではどうしようもない条件によって不公平や虐げられるような事態が発生するのも事実です。
だからシステムを強く求める思考を捨てきれません。
求めるものと好むものが一致していないこの状況は、自分の中に中途半端さを生んでいる気がします。
この中途半端さが自分自身を囲う檻となって、成長を阻害している気がしなくもないです。
方向が分散して深いところまでいけないのではと思ってしまいます。
”成長”は自分にとってとても重要な価値観です。
今年は特に成長に重きを置いています。
成長とは「変わること」ですから、今ここで自分の内面の中途半端さと向き合って変化を作り出す必要がある気がしています。
この文章のような理屈っぽさをどうにか打ち壊して、アレンジが利く人間になりたいと思う今日この頃です。
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