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学問的コミュニケーションを取りたい。

いつも散歩に行く友人との会話の一幕を書きたくなったので。


まずは貴方に問う。

「貴方は普段、どんな会話をしている?」

大学生である私が考える"普通"は、
「最近大学どう?」「バイトどんな感じ?」「サークルとか入った?」
もしくは趣味の話等々。


私とその友人は、普段こんな会話をしています。
「我々って何のために生きてるの?」
「恋愛ってどうして皆したがるの?」
おおよそ心理学、言語学、哲学、社会学、倫理学等々がメイン。


おそらく世間一般として、
我々は尖った方の人間でしょう。
だって貴方、こんな会話普段しないでしょう?

我々はこういう世間的に尖った会話をするのが好きです。
端的に言えば、答えのない問いを真剣に考えて語るのが好きなのです。
でも貴方はそんな会話をしないし、皆だってしていない。
何故なのか。
何故、学生の皆は普段から学問を学んでいるのに、
その話題を一切日常会話で出さないのか。
或いは、出したとて必ずネガティブな話題になってしまうのは何故か。

私はこの問いについて、ある一つの仮説を立てています。
「学問というものは学ばなければいけないものであり、日常会話において学問という皆が忌み嫌っているものを話題にするのはタブーだからではないか」と。

なんでですかね、これ。
だって大学って皆が皆行く場所でもないし、
なんなら自分が学びたい学問を専攻して徹底的にその学問を摂取しにきているはずなのに、
大学内では全くそういう会話が見られない。
「さっきの授業、ここが面白かったよね~」
「さっき先生が言ってたところ、ちょっと触れたくてさ~」
なんて会話は微塵も存在しない。
「最近ピアス開けたんだけどさ~」「バイト始めたいんだよね~」
「スタバの新作美味しそうじゃない?」みたいな会話ばかり。

そういう日常会話が悪だとは微塵も思っていません。
むしろそういう会話からでしか得られない情報もかなりあるし、
なんせ話していて楽しいのは十分わかります。
ですが、我々のしたい会話をいざ投げた時、
毎回冷めた反応を取られたり、眉間にしわが寄っているのが見て取れて、
いつもモヤモヤしてしまうのです。

私がコミュニケーションを苦手とする理由の一つがこれです。
その友人との会話が私にとってのデフォなので、
他の人と喋る時のギャップが凄まじいのです。あまりに辛い。

自己紹介にもその弊害が出ます。
自己紹介なんて私のnoteの一部を抜粋して自分がどういう人間か語れば済むはずのことなのに、
いざそれをやったが最後、場が冷めること間違いなしです。
自己紹介なんて皆趣味の話オンリー。
仲良くなりたいなら皆で価値観語り合おうよと私は思うわけだが。

他の事例も。
私は動物園とか、水族館とか、或いは博物館だったり美術館なんかに行く時には、
どうしてもその分野に詳しい人間と一緒に行きたいのです。
詳しい人間と一緒に行って、色んな知識を教えてもらいたいのです。
でも大体の人は、「凄いね~」「綺麗だね~」「かわいいね~」とかで終わり。
それが悪とは思いませんが、
マジョリティがそういうものだとマイノリティである私が浮いた存在になってしまって、
どうしようもなく苦しいのです。

おそらく私の知的好奇心が人より強いからなんですかね。
私は色んな事を知りたいし、
色んな事を考えてそれを誰かと話し合いたいだけなのですが、
頭使うから~なんて言われて終了なんてことが多々。

私が日常会話を全くしないわけではないですが、
日常会話を振り返っても何の話したか思い出せないですし、
ましてや日常会話をしてる最中もあれ今どういう返答したっけなんて考えたりしてしまいます。

要するに、日常会話って脳死なのでは?と。
皆も日常会話してる時何も考えていないんじゃないかなんて思考に至ってしまいます。
というか私の場合は如何に失言しないかとかばっかり考えている気がします。それでもやらかす人ではありますが。


件の友人以外とはこういう話ができないのかなと、
半ば私は諦めていました。

でも、そんな時に始めたnoteが、
想像より皆に刺さってくれました。
私の価値観をつらつらと書き綴っただけの拙い文章を、
色んな人が見てくれました。

私のnoteを見て、
「もっと早く気づきたかった。悔しい。」という言葉を言ってくれた人がいました。
正直凄く胸を衝かれました。
そう言ってくれるほどに私の人間性に興味を抱いてくれていること、
本当に本当に嬉しくてたまらなかったです。泣きそうになるほど。
でもよくよく考えたら、
私も普段からそういう価値観をあまりひけらかさない人なので、
私も世間から見たらマジョリティの一種に属してしまっているのだなと感じました。
そう思うと私も心底悔しいなと。


あれ?
私が気づいていないだけで、
もしかしたら我々のような人間って少なからずいるのか?
なんて淡い期待を抱いたり。

以前のTwitterスペースで、
その友人と普段するような会話をしました。
題材は社会学。
やっぱり理解に苦しんでいる人間はかなり散見されましたが、
興味を示してくれる人間が僅かながらいたのも事実です。
その僅かな存在に縋りたい。
そして、私が僅かだと思っている存在を社会から炙り出してやりたい。
そう思うようになったのです。

じゃあもっとnoteを有効活用すればいいのでは?と考えたわけで。
いわば私のnoteって、
つまるところ「まっちゃスターターパック」みたいなものだと私自身は思っていて、
私の価値観を手っ取り早く簡単に享受するにはもってこいの媒体だと思っています。

ならそれを皆に見てもらえばいいじゃないか。
それだけのことじゃん。そうだろう?

でもそれってとても勇気がいることで、
マイノリティを自分から表明するという行為には敵を作りかねないのです。
アンチができるだけではなく、
今まで軽く顔なじみくらいの関係だった人間から冷めた目を向けられて遠ざけられてしまう可能性を孕んでいます。

それでもマイノリティを貫いて、
私と同じような人間をピンポイントで見つけに行く。
ハイリスクハイリターンの所業をやれるだけの覚悟が、
果たして私にはあるのだろうか。

私は臆病な人間です。
いつも人の目を窺って、
いつも安牌を取りに行って、
リスキーな選択肢は基本取らない。
そういう人間です。

臆病な自分からの脱却を試みる覚悟が、
今の私が間違いなく一番欲しているもの。
いくら私の持っている浅いものを適当に拾い上げてもらって、
この趣味一緒~だのなんだの言われるだけに留まってしまうのはまっぴらごめんです。
もっともっと、私の奥底にあるものを見てほしいし、
私も貴方の抱えているものを深くまで知りたい。
そうするには、まず私が覚悟を抱く必要がある。
まっちゃらしさを貫け。

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