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ここ最近の反省 〜自分の戒めとしての振り返り〜

◯怒りすぎてしまう毎日

 今年度は1年生を担任しているが、本当に難しさを感じる。昨年度は5年生を担任してかなり苦しい1年となったが、今年度はまた違った壁にぶつかっているように感じる。決してクラスが落ち着いていないわけではないと思う。子どもたちも学校生活に慣れてきたので、日々成長を感じているのだが、自分の行いたい学級経営とは乖離している感じがしている。だからこそ、ここで一度振り返っていきたいと思う。
 どんなことに苦しさや違和感を感じるのか振り返ってみたときに一言でいうと怒りすぎている。初任でもった4年生、大変だった5年生よりも怒っている回数が多いと思う。もちろん、意図的な指導もあるのだが、感情的に怒ってしまうことがある。いつも帰り道に「今日も怒りすぎてしまったな」と反省する毎日。少し、パワー勝負で子どもたちを指導しているような気もしてきて自己嫌悪にもなる。

◯どうして怒ってはいけないのか。

 なぜ、怒りすぎていることが自分の中で引っかかっているのか。子どもたちを指導しないときに力まかせに指導しているからだと思う。それもきっと楽をしている指導になっていると思う。例えば、子どもが授業中にふざけてしまった時に「〇〇さんいい?」とひと言子どもに声かけしている。口癖になっていると思う。それでも聞かないと「いい加減にしなさい」と伝えている。これで大体は静かになると思う。だけど、どうだろうか。子どもはどうして静かにしたのだろうか。きっとそれは、自分に怒られたからである。怒られたからふざけるのをやめる。そして、周りの子たちは先生に怒られないために静かにしているのである。このように、「先生に怒られないために」「先生に褒められるために」という理由で頑張ることになってしまう。これがヒートアップするときっと子どもたちは先生のいうことをしっかりと聞く子たちになるだろう。あくまで担任の先生のいうことを。
 では、なぜいけないのか。仮にこの1年間、外から見てうまくいっているような学級になっていたとしても、それはこの1年だけである。そして、決してうまくいっていないのである。表面上そう見えているだけで本当の意味で子どもたちは育っていない。仮にそのような1年を子どもたちが過ごしたとして、高学年になった時にどうなるだろうか。「先生に怒られるのが怖いから頑張っていた子たち」は「先生に怒られるなんてどうでもいい」と考えるようになり、好き勝手をしてしまう。だからこそ、パワー勝負の学級経営は良くないのだと思う。本当の意味で子どもが育っていないのだと思う。

◯どうして怒ってしまうのか。

 頭では怒っても意味がないことが分かっていても、なぜ怒ってしまうのか。きっとそれは楽をしているのと余裕がないからである。はじめは意識していた。子どもたちに指導の時にも「なぜしてはいけないのか」を考えさせていた。子どもの中でその部分を落とすことを意識した。それもこっちが答えを言うのではなく、子どもと一緒に考えた。でもなぜ、怒ってしまうのか。時間をかけずに指導できるからである。子どもであるので言われたそばから再びやってしまうことがある。そしてそれが教室のいたるところで起きる。「〇〇くんが意地悪をしてきた」「〇〇ちゃんに〜って言われた」と。そうすると全部を丁寧に解決している暇がなく、怒りという感情を使ってしまう。そうすることで子どもたちがいう事を聞くのだから楽なことである。そしてそれを知ってしまうと「今は忙しいから」と自分自身に言い訳をして、怒りを使った指導をしてしまう。そんなのは教師の怠慢であり、教師の都合でしかない。そして、言い過ぎてしまったと反省をするのだが、子どもたち先生に認められたいのだから翌日も教師のところへやってくる。こんな学級経営をやりたいわけではない。子どもにも本当に申し訳ない。
 4年生と5年生をもったときには感じなかった壁である。高学年にもなるとそこまで日常的に声かけをするようなこともなかった。ただ、それが毎時間のようにあることで自分自身の未熟さが露骨に現れたのである。

◯どんな子どもを育てていきたいのか

 ここでもう一度自分がどのような子どもたちを育てたいのかを考えていく。子どもたちがのびのびと自由に子どもらしくいる。のびとのびと学習し、のびのびと生活する。決して大人のためではなく、自分のために生きる子どもたち。そして、自らのために成長したいと思う子どもたち。そこを手助けできるような存在になりたいと思う。ただ、それは放任するわけではない。放任すれば自由をはき違えて自分勝手な子たちになってしまうと思う。だからこそ、そこを教えていかなければいけないのだと思う。ただ、教え方を誤ってはいけない。自分勝手を力で押さえつけるような指導であれば、教師に怒られらないために頑張る子を育ててしまう。意図的に厳しさが必要な場面はあっても、感情的な怒りは子どもを屈服させるための手段に過ぎないのだと思う。きれいごとだけではうまくいかないと思う。こっちも人だから感情的になることもある。ただ、そこにいい結果は生まれないことは知っておかなければいけないと思う。

◯変えることができるのは子ども自身

 どうしても自分の中で「子どもたちはこうあるべきだ」という理想像を押し付けてしまう。授業中は先生や友だちの話をしっかりと聞ける子、テストでいい点を取れる子、友だちに対して優しくできる子、そうあるように子どもたちに指導する。ただ、その目的はなんだろう。自分自身、周りの目を気にしているのだと思う。他の先生から自分のクラスがどう見えているのかなどを気にしているからである。だから、授業中に立ち歩いてしまうことを否定する。授業中にノートを書かないことを否定する。自分が1番周りの評価を気にしているのである。それは子どもたちもそう育ってしまう。
 もちろん、子どもたちには成長してほしい。教師のエゴかもしれないが素敵な人になってほしい。ただ、教師といえど人を変えることはできない。あくまでできるのは変わるための手伝いである。成長するための手伝いである。ある本で、「馬を水辺まで連れていくことはできるが、水を飲むか飲まないかはコントロールできない」と書いてあったが、教師も同じである。教えることはできるが、そこで変わるかどうかまではコントロールできない。そこで無理やり変えようとして怒りという感情を使っているのが、ここ最近の自分であると思う。「子どもたちのため」と言いながら自分自身の理想を押し付けているのである。

◯自分自身の戒めとしての振り返り

 今回、振り返ったことは自分自身の戒めである。一旦立ち止まって自分に言い訳をして、自分に嘘をついていることを認めたかった。その上で明日からどうするかをもう一度考えていく必要があるのだと思う。どういう風に関わっていくかが明確に分かってはいない。ただ、やってはいけない指導を明確にすることができた。

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