早稲田大学人間科学部eスクール「フランス文化論」レポート

 これも早稲田大学人間科学部eスクールの社会人学生だったときに書いたレポートです。科目は2006年春学期に受講した「フランス文化論」。石器時代から現代までのフランスの歴史と文化を概観するもので、レポートは授業で扱われたトピックから好きなものを選び、それについて述べよというものでした。

 15回の授業の後半で、ヌーヴェル・ヴァーグに関するトピックが出てくることもシラバスでわかっていたので、それならば……と、ファンでもあったジャン=ピエール・メルヴィルについて書くことにしました。

 そのために、事前に参考資料となる書籍やDVDを買ったり借りたりして、その内容を読んだり鑑賞したりしつつ準備を進めました。『マンハッタンの二人の男』や『恐るべき子供たち』はDVDで購入するなど、お金もかけています。このあたりが社会人学生の強みかもしれません。高校生のときに読みふけった文庫クセジュの『レジスタンスの歴史』『地下抵抗運動』には、早稲田大学の中央図書館で再会することができました。

 しかし、それはともかく、eスクールに入って2年目になっているのに、いまだ文章はエッセイのような雑誌記事のようなものになっています。

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「フランス文化論」レポート
 クラス:03
学籍番号:********
  氏名:菅谷 充
タイトル:“ヌーヴェル・ヴァーグの父”ジャン=ピエール・メルヴィル

 「フランス文化論」レポート
“ヌーヴェル・ヴァーグの父”ジャン=ピエール・メルヴィル

■フランス映画に魅せられて

 1950年生まれの私が、フランスという国の名前を強く意識したのは、『太陽は傷だらけ』(1963年公開)という映画からだった。チンピラヤクザの男の友情のようなものを描いた映画で、なぜか主題曲もよく憶えている。
 当時、1960年に大ヒットした『太陽がいっぱい』(アラン・ドロン主演、1960年公開)の影響で、似たようなニュアンスを持つフランス映画の邦題には、すぐに『太陽』がつけられた。『太陽は傷だらけ』も、そのような作品の一本だったはずだ。
 どちらかというと紛い物にちかい映画ではあったが、その通底に流れる「悪の匂い」に魅せられたのだと思う。その傾向が決定的になったのは、アラン・ドロン主演の『地下室のメロディー』(1963年公開)を見てからだった(静岡県の地方都市のため、公開の順番はデタラメだった)。
『地下室のメロディー』の後、アラン・ドロン主演の映画は、ほぼすべて見ていたはずである。ほかにも多数の暗黒街映画を見たが、やはりアラン・ドロンが出演する映画が、面白さでは秀逸だった。たとえば『危険がいっぱい』(1964)や『泥棒を消せ』(これはアメリカ映画。1965)、そして『サムライ』(1967)と出会ったときには高校生になっていた。
 そろそろ映画監督の名前にも注意するようになりはじめていた頃で、この『サムライ』という映画で、ジャン=ピエール・メルヴィルという名前を頭に刻みつけた。あとで気づいたのだが、メルヴィル監督の作品は、すでに『いぬ』(ジャン・ポール・ベルモンド主演。1963)や『ギャング』(リノ・バンチュラ主演。1966)を見ていたのに、監督の名前を意識したのは、『サムライ』が最初だった。

■メルヴィルとレジスタンス

 同じ頃、私は通っていた高校の図書室で、1冊(正確には2冊)の本に出会い、どういうわけかその内容に魅入られ何度も読み返していた。『レジスタンスの歴史』(アンリ・ミシェル著)という本である。ユーゴスラビアの地下抵抗運動組織パルチザンの活動を描いた映画を見たことが、この本を読むきっかけになったのだと記憶している。
『レジスタンスの歴史』には、フランスの被占領地域とヴィシー政権の南仏における抵抗運動が、当事者の手によって詳しく紹介されていた。危険の多い非合法活動で、スパイ映画を地でいっているようなところがあったが、007のような荒唐無稽さはない。もっとシリアスで、また沈鬱なものであった。
 私は、そのレジスタンスと同じ匂いをフランス映画のなかに嗅ぎ取っていた。とりわけレジスタンスの匂いが感じられたのがメルヴィルだった。男同士の信義、友情、そして裏切り。これらはフランス版ハードボイルドともいえるし、あるいは、当時、日本で人気が急上昇していた東映ヤクザ映画の精神にも通じるものがあった。
 そのメルヴィルが、「ヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれる存在だったことを知るのは、さらに年月が経ってからのことである。私はヌーヴェル・ヴァーグには間に合わなかった世代で、ゴダールの『勝手にしやがれ』などを見たのは、1969年に18歳で上京した後のことになる。その年、メルヴィルは、フランスで、自身のレジスタンス体験を投影させた『影の軍隊』を公開し、大ヒットさせていた。
 メルヴィル自身にレジスタンス経験があったことを知るのは、この映画が翌年東京でロードショー公開されたときに劇場で買ったパンフレットか、雑誌の紹介記事あたりではなかったかと思う。メルヴィルにレジスタンス経験があったことを知り、同時に『影の軍隊』を見て、『いぬ』『ギャング』『サムライ』に共通するトーンに納得したものだった。

■メルヴィルの映画人生――はじまりはレジスタンス映画

 1917年10月20日、パリに生まれたジャン=ピエール・メルヴィルの本名は、ジャン=ピエール・グランバック。メルヴィルの名は、敬愛する『白鯨』の作者の名前からいただいたものだった。
 メルヴィルは、パリのリセに学んだ後、1937年、20歳でフランス軍に入り、第二次世界大戦にも従軍する。フランスがナチスドイツに敗れた後はレジスタンス活動に身を投じ、さらにド・ゴール将軍が臨時政府を置いていたロンドンに飛んで、自由フランス軍に参加する。
 1945年、第二次世界大戦の終結と同時に映画界に入ろうとするが、当時の映画界は、共産党系の組合に牛耳られており、新人が入り込む余地はなかった。そのためメルヴィルは、自分のプロダクションをつくり、短編映画『ある道化師の24時間』を撮影した後、初の長編映画『海の沈黙』を撮影する。
『海の沈黙』は、第二次世界大戦中、「深夜叢書」の第1作として発刊されたヴェルコール作の「抵抗小説」である。占領下のフランスで、1941年冬、ひとりのドイツ人将校が、宿舎として割り当てられた田舎の民家にやってくる。この民家の一部屋が、フランスの歴史や芸術を愛する紳士的なドイツ人将校に割り当てられたからだ。
 このドイツ人将校は、この家に暮す伯父と姪に対し、フランスの文化を絶賛する。ところが伯父と姪のふたりは、いっさい言葉を発しようとしない。ドイツ人と言葉をかわさずに“沈黙”を守ること――これが彼らのささやかな抵抗だったのだ。
 この映画を見た作家のジャン・コクトーは、自作小説の映画化をメルヴィルに持ちかける。こうして完成したのが『恐るべき子供たち』(1949)であった。

■メルヴィル、犯罪映画に進出

 メルヴィルが犯罪映画に手を染めるのは、『賭博師ボブ』(1955)が最初である。この映画は、アメリカの「暗黒街映画(フィルム・ノワール)」の影響を受けた作品だともいわれている。
「フィルム・ノワール」の定義については様々な議論もあったようだが、「殺人などの犯罪を犯罪者の側から描いたもの」「社会的道徳観念の喪失」「観客が犯罪者に同化し同情する」といった共通項があった。
 ただし、「フィルム・ノワール」についての議論はフランスで行われていたが、その対象となる映画の大半は、『マルタの鷹』(1941)や『三つ数えろ』(1946)などのハリウッド製であった。
 メルヴィルは、これら「フィルム・ノワール」作品を愛好した。なかでも、チームを組んで宝石強盗を成功させた男たちが、仲間割れを起こし、それぞれが持っていた夢が崩れていく様を描いた『アスファルト・ジャングル』(ジョン・ヒューストン監督。1950)を好んだという。その後のメルヴィルの作品を考えると、いかにもと思えるプロットの作品である。
 メルヴィルの次の作品は、『マンハッタンの二人の男』(1958)となった。これはメルヴィル自身が主役となり、ニューヨーク・ロケも入れて製作されている。
『マンハッタンの二人の男』は、AFP通信社ニューヨーク支局に勤務する主人公のモロー(メルヴィル)が、ゴシップ専門カメラマンの相棒デルマスと、国連の会議を欠席したフランスの首席代表の行方を捜す24時間の物語である。首席代表は、愛人の部屋で心臓発作を起こして死んでいるのが発見されるのだが、そこに現れたモローの上司が、大戦中、首席代表がレジスタンス活動の同士だったことを明かし、彼の名誉のため別の場所で死んだことにしてほしいとモローに依頼する。そこで愛人の部屋から遺体を運び出すが、そこには思わぬ展開が……というストーリーである。そして、ここにもレジスタンスの過去が影を落とし、そして最後は、やはり男同士の信義と友情が関わってくる。
 この映画はモノクロで、ニューヨークにロケしてもいるのだが、そのロケシーンの多くが、手持ちカメラによって撮影されている。とくに有名なのは、メルヴィル演じる主人公のモローが、マンハッタンの地下鉄に乗っているシーンである。メルヴィルは、混雑する車内に手持ちカメラを持ち込み、自分自身を撮影するというゲリラ的手法をとった。この手法は、やがてヌーヴェル・ヴァーグの騎手となるジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーに注目され、彼らの映画にも採り入れられていく。そのため、『マンハッタンの二人の男』を「ヌーヴェル・ヴァーグのさきがけ」と位置づける映画評論家までいるほどだ。
 トリュフォーは評論でメルヴィルを絶賛し、ゴダールはデビュー作の『勝手にしやがれ』にメルヴィルを俳優として登場させている。メルヴィルは、空港で記者会見を開くサングラスをかけた作家の役を演じていた。
 メルヴィルは、つづく『モラン神父』(1961)で再び第二次大戦中のレジスタンス活動を題材にしたあと、前述の『いぬ』『ギャング』『サムライ』とつづくノワール映画を3本撮り、そして1969年、『影の軍隊』を公開する。

■最後のレジスタンス映画

『影の軍隊』も『海の沈黙』と同様に、第二次世界大戦中にジョゼフ・ケッセルの手で執筆された「レジスタンス文学」の1冊である。メルヴィルは、1943年、ロンドン滞在中にこの本を読み、映画化を構想したという。だが、その構想が実現したのは26年後のことだった。
 1942年、ドイツ軍占領下のフランスでゲシュタポに逮捕されたフィリップ・ジェルビエ(リノ・バンチュラ)は、強制収容所に入れられるが、尋問のためパリのゲシュタポ本部に護送されたとき、機転を利かせて脱走する。
 マルセイユに逃げたジェルビエは、レジスタンスの仲間と共に裏切り者を殺す。その後、リヨンに潜伏したジェルビエは、潜水艦でロンドンに渡るが、リヨンに残った仲間が逮捕されたことを知り、その救出作戦を実行するため、イギリス空軍機からパラシュート降下する方法でフランスに舞い戻る。女性闘士のマチルド(シモーヌ・シニョレ)たちとともに救出作戦を実行するが、作戦は失敗する。
 さらにジェルビエは再び逮捕され、ナチスに銃殺されそうになるが、その危機をマチルドたちに救われ、農家に隠れ住むことになる。その間に、娘を人質に取られて逮捕されたマチルドは、仲間の情報を売り、釈放される。
 たとえどんなに組織に貢献してきた身ではあっても、裏切り者を生かしておくことはできなかった。ジェルビエはマチルダを射殺する。そして、シェルビエを含む生き残りのレジスンタンス闘士たちも、全員が命を落とすことが、映画の終わりの字幕で伝えられる……。
 この映画は、メルヴィル自身によれば、原作をベースにしてはいるが、自身の体験を多く採り入れた作品であるらしい。主人公のジェルビエがロンドンに赴いたとき、映画館で『風と共に去りぬ』を見るシーンがある。その映画の看板が掲げられた映画館の前を通るシーンもだ。これもメルヴィル自身の体験を元にしたものだ。しかもメルヴィルは当時20代の後半で、まだ青春の面影を残している時代でもあった。
 主人公を演じていたリノ・バンチュラは、とても青年には見えなかったが、映画の冒頭には、次のような文章が流れていたという。
「いやな思い出だ! しかし、ようこそ、はるか彼方の青春時代よ」(ビデオになった『影の軍隊』を見たが、英語版であったためか確認できなかった)
 メルヴィルにとって、レジスタンス活動は、どこか胸躍るところがあったのだろう。事実、『影の軍隊』についてのインタビュー(『サムライ――ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』)の中でも「戦争の時代は忌まわしく、ぞっとするが……驚異的なものだったよ!」と語っている。
『影の軍隊』は、フランス国内でメルヴィル最高のヒット作品になったという。それも、多くの元レジスタンス闘士たちに支持されての結果らしい。
 メルヴィルは『影の軍隊』のあと、再びノワール作品である『仁義』(1970)を撮り、つづいて『リスボン特急」(1972)を撮影する。
『リスボン特急』は、銀行ギャングに失敗した男たちが、パリからポルトガルに向かって走る特急列車で運ばれる麻薬を、ヘリコプターを使って横取りしようとするストーリーである。そして、ここでもまた、レジスタンスが映画に影を落としている。ギャングたちがレジスタンスの元闘士という設定だからである。
「レジスタンスという非情な非合法活動に身を投じ、絶えず生命の危険がつきまとう非日常の世界を体験してしまった男たちは、戦後の平和な生活になじめず、結局、金のためではなく、自分が生きているという証を求めて犯罪に手を染めていくしかないのでは?」
そんなメッセージが『リスボン特急』からも感じられた。やはりこの映画もメルヴィルにとっては、レジスタンスという「燃え尽きた青春」を描いた映画であったのだろう。
『リスボン特急』は、あまり高い評価を得られずに終わったが、この作品がメルヴィルにとっての遺作となる。『リスボン特急』が公開された翌年の1973年8月2日、メルヴィルが心臓発作で急死してしまったからである。享年56歳。公開された長編映画は13本。その多くが、レジスタンスそのものを描くか、レジスタンスの香りを漂わせた作品であった。
 メルヴィルの死に歩調を合わせたかのように、その後、フランス映画は沈滞の季節を迎えることになる。約20年の空白期間の後、フランス映画が再生の兆しを見せるのは、リュック・ベッソン監督(『レオン』など)あたりが登場した1990年代になってからのことである。だが、そのフランス映画は、どれもきわめてハリウッド的であった。
 
■参考資料

○書籍
『サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』(ルイ・ノゲイラ/井上真希・訳/晶文社/2003年11月刊)
『ヌーヴェル・ヴァーグの時代―1958‐1963E/Mブックス』(遠山純生,細川晋・編集/エスクァイアマガジンジャパン/1999年4月刊)
『フィルム・ノワールの光と影EMブックス』(遠山純生・編集/エスクァイアマガジンジャパン/1999年7月刊)
『海の沈黙 星への歩み』(ヴェルコール/河野与一, 加藤周一・訳/岩波文庫/1973年1月刊)
『レジスタンスの歴史』(アンリ・ミシェル/淡徳三郎・訳/白水社文庫クセジュ/1952年1月刊)
『地下抵抗運動』(アンリ・ミシェル/霧生和夫・訳/白水社 文庫クセジュ/1962年8月刊)
『全集・ライフ第二次世界大戦史「解放への道」』(マーティン・ブルーメンソン/加瀬俊一・日本語版監修/タイムライフ/1979年刊)

○DVD
『マンハッタンの二人の男』(ジャン=ピエール・メルヴィル主演・監督/紀伊國屋書店/2005年9月発売)
『恐るべき子供たち』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督/ニコール・ステファーヌ主演/アイ・ヴィー・シー/2003年11月発売)

○ビデオ
『影の軍隊』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督/リノ・バンチュラ主演/ポニーキャニオン)
『サムライ』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督/アラン・ドロン主演)

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