早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程:「移民研究特論」期末レポート
2009年、早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程1年生のときに受講した「移民研究論特論」という科目の期末課題として提出したレポートです。
授業は、受講生それぞれに割り当てられた移民に関する論文を読み、その内容を要約して発表するものでした。その論文だけを読んでも状況がわからないため、関連の論文・書籍などを読みあさり、全体像まで把握する必要がありました。
期末課題は、そんな授業で読んだ論文の内容についてまとめるものでしたが、その他の論文・報告などを扱ってもよいとのことだったので、関連資料を読みあさっている途中で出会った日系人レース関係者についての文献を読んでのレポートを書くことにしました。もちろんモータースポーツが好きで、そちら方面の文献は多く読んでいたこと、また、二世部隊と呼ばれた442部隊に関する書籍も多く読んでいたことが、このレポートを書く動機の多くを占めています。
早稲田大学中央図書館には、移民に関する文献が大量にあるため、資料となる本を腰が痛くなるほど借りてきたり、大学院生が使える個室で読みふけったりしました。自宅から30分ちょっとで行くことができ、22:00まで開いているので、とても重宝したものです。夜に出かけると、帰りは酒場に寄り道……というパターンも多かったのですが(笑)。
しかし、いま読み返しても、レポートというより「記事」ですねえ(笑)。
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「移民研究特論」期末レポート
スピードに生きた日系二世
―タケオ・ヒラシマのライフヒストリー―
A Japanese-American (nisei), lived with speed.
-- A life story of Takeo Hirashima --
学籍番号:********
氏 名:菅谷 充
早稲田大学大学院人間科学研究科
2009年7月
要旨
アメリカ合衆国における日本人移民と日系アメリカ人は、1924年の排日移民法や太平洋戦争中の強制収容所への隔離など、絶えず苦難の歴史を歩んできたとされている。一世の世代にとっては、言葉も通じない土地で働くことは、ときには耐え難いほどの苦労もあったであろうことは想像に難くない。
しかし、アメリカの地で生まれ育った二世たちも、青春を謳歌するようなこともなく、ひたすら苦難の道を歩いていたのであろうか。アメリカ西海岸でホットロッドという自動車による競争を楽しんでいた若者たちについての記録を調べてみると、ヨーロッパ系もアジア系も関係なく、ともにスピードを楽しんだ様子がみてとれる。また、そのようなホットロッドの世界からは、後年、アメリカのモータースポーツや自動車業界で名を成す日系二世も誕生した。
本レポートでは、アメリカでモータースポーツの世界に生涯を捧げ、インディ500マイルレースの殿堂にまで入ったタケオ・ヒラシマのライフストーリーを追ったものである。むろん途中には幾多の苦難もあったろうが、その人生の大半において「幸せな時代」を送ったヒラシマのような人物がいることも、もっと知られてもよいのではなかろうか。
Abstract
Japanese Immigrants and their children (nisei) were well known as persecuted people in U.S.A. until the end of WW-II. It is easy to imagine that issei generation was very hard to work because most of them were not able to speak English. But, the nisei generation was also persecuted?
There have been many reports of pre WW-II era Hot-rod, automobile speed trials at dry lakes of the Mojave Desert in Southern California, were published in U.S.A., there was no mention about racial prejudice. Nisei hot-rodders could join the prestigious hot-rod clubs and enjoyed speed without racial problem.
Takeo Hirashima was one of JA (Japanese-American) hot-rodders and enjoyed to work in the auto racing world, especially in the Indianapolis 500 Miles Race (Indy 500) before and after WW-II. This report is his life and success story in the world of speed.
1. 序論
1.1 背景
1.1.1 日系移民は、すべて悲惨だったのか?
すでに150年ちかい歴史を持つ日本人移民の研究は、これまで多岐にわたって行われてきた。ハワイを含む北米から、ブラジルをはじめとする中南米、旧満州・朝鮮半島・フィリピンなどのアジアまで、日本人移民の渡航先は多岐にわたるが、その移民に関する論文や書物をひもといてみると、低賃金に甘んじ、過酷な労働を強いられた移民の苦行にあえぐ姿が浮かびあがってくる。
実際にそのような例もあったのだろうが、19世紀までつづいていた奴隷制度とは異なり、その多くは自分の意思で海外に出た人たちである。たしかに日本で生活が成り立たなくなり、その結果、海外への移民に活路を求めた人も多いのだろうが、その多くは移民先に定住し、二世、三世も生まれて、現地に根ざした生活を送っている。そこには、最低でも「日本よりはまし」な生活があったのではなかろうか。そうでなければ第二次世界大戦前にアメリカ合衆国で排日移民規制法の逆風が吹いたときなどに、大多数の日本人が帰国の道を選ばず、移住先に居残った理由がわからない。
日本人移民のなかには、移民先で生まれた子弟を日本に送り、日本の教育を受けさせた一世もいたが、とりわけアメリカでは、自分たちの生活を切り詰めてでも、子どもに高等教育で学べる機会を与えようとする一世が多かった。教育こそが自分たちの生活を向上させ、社会的地位を高めることにつながると信じていたからであろう。
このような「恵まれた環境」のなかで生まれ、教育を受けた日系二世の誰もが、やはり、人種差別の嵐が吹き荒れるなかで、苦難に満ちた悲惨な生活を送っていたのであろうか。そのような疑問を抱きながら調べてみると、太平洋戦争以前にあっても、そのような人種差別の苦難とは無縁のように見える世界もあったことが判明した。そのひとつが、多くの日系二世が関わっていたモータースポーツの世界である。
1.1.2 インディ500で活躍した日系人
アメリカでは、毎年、5月の最終日曜日(メモリアルデーの前日)に、「世界最大のモータースポーツ」といわれている「インディアナポリス500マイルレース(インディ500)」が開催される。1周2.5マイル(4km)の長方形をしたコースで、33台のレーシングカーが疾走するレースである。観客の数は、毎年40万人超。「世界一のモータースポーツ」と呼ばれる理由は、この観客動員数にある。
インディ500が開催されるインディアナポリス・モーター・スピードウェイの完成は1909年。2009年は100周年にあたる。第1回インディ500は、スピードウェイ完成の2年後、1911年に開催されている。
まさに歴史と伝統ある自動車レースで、世界中からドライバーや自動車メーカーが参戦してきたが、日本人ドライバーが初出場したのは1990年になってからのことである。ドライバーの名前はヒロ松下(松下弘幸)。松下電器産業の創始者・松下幸之助氏の孫にあたる人物であった。
ヒロ松下がインディ500に参戦したとき、以前に日系二世が出場したことがあるという情報が、日本にも流れてきた。しかし、そのときは詳しいことがわからず、そのままになった。
次に、インディ500に出場した日系二世の話題が日本に伝えられたのは、1996年、栃木県茂木町にホンダがアメリカ型のレース用オーバル(楕円形)コースを建設し、アメリカのインディカー・シリーズの1戦が98年から開催されることが決まったときのことである。日本との結びつきが強まったことと関係してなのか、この年、インディ500の会場となるインディアナポリス・モーター・スピードウェイの敷地内にある「ホール・オブ・フェイム」というレースの殿堂に、この年、名前を登録される3名の候補者のうちの1人として、タケオ・ヒラシマという日系二世の名前が挙げられ、日本のモータースポーツ界でも、一躍、注目を浴びることとなった。
カリフォルニア出身のヒラシマは、長年、メカニックとしてインディ500に参戦し、彼の手がけたマシンやエンジンが、何度も優勝したことがあるのだという。それだけでなく、第2次世界大戦前にはライディング・メカニックとして、何度もインディ500の予選と決勝に参加した経験を持っていた。
ヒラシマは、1996年には「殿堂入り」ができなかったが、2年後の1998年、あらためて殿堂入りを果たしている。ただしヒラシマは1981年に永眠していたため、故人としての殿堂入りであった。
北米への日系移民については、これまで人種差別や収容所への隔離といったネガティブな面ばかりが紹介されることが多かった。しかし、世界最大のモータースポーツに挑みつづけ、そして成功したタケオ・ヒラシマの歩んだ軌跡を追うことで、悲惨な日系移民ばかりではなかったこともわかってくるのではないか。そのような期待を込めて、本研究では、主にアメリカの文献を調査し、ヒラシマの生涯をたどってみることにした。
1.2 先行研究
ヒラオ・タケシマは、1996年にインディ500の殿堂入りが話題になるまで、日本では、ほとんど紹介されたことのない人物であったため、それ以前の日本語による紹介は、皆無にちかい状態であった。『インディー500』(檜垣和夫 1994)という本に、他の日本人メカニックの動向とともにタケシマのことが、ほんの数行だけ紹介されていたことがあったくらいのものである。
また、自動車専門誌『カー・グラフィック』の1996年6月号に、ヒラシマを紹介する5ページの記事が掲載されたことがある。これはインディ500の殿堂入り候補者として名前が出た際に、グリフィス・ボルゲソン(Borgson, Griffis)というアメリカ人ジャーナリストが書いた記事を購入し、翻訳したものらしい。オリジナルの英文記事は、アメリカのクラシックレース雑誌『VINTAGE Motorsport』の1997年4月号に掲載された。
以上の記事のほかに、『F1倶楽部』(双葉社)という雑誌に、やはり短い記事が掲載されたことがあるようだが、こちらは入手できなかった。
その他のタケオ・ヒラシマに関する記事は、主にアメリカのインディカー・シリーズやテレビ、自動車雑誌などのWebサイトに掲載されたものである。Webサイトのリンクをたどり、モータースポーツ・ファンが集まる掲示板などもたどることで、ヒラオ・タケシマという人物について、かなり詳細に追跡することができた。
1.3 問題提起
前述のとおり、日系移民の歴史や文化を紹介する書籍や論文には、悲惨な移民の現実を伝えるものが多く、成功した移民の例は、あまり見受けられなかった。第2次世界大戦以前の移民については、日本の主権が及ばない非勢力圏、日本の主権下にあった勢力圏といった二項対立的な区分けをするものが多く、「非勢力圏への移民=棄民」「勢力圏への移民=植民」というような色分けがなされたものが多かった。
このような論文や書籍には、統計データのみを使って当時の情勢を判断したようなものが多く、日本の帝国主義批判を前提とした移民研究も少なくないように見受けられた。
しかし、ひとたび海外に目を向ければ、たとえばアメリカやハワイにおいても、多くの日系アメリカ人の歴史を綴った文章やインタビューが、雑誌や書籍、Webサイトに多数掲載されており、インターネットを利用すれば簡単に入手できるようになっている。
アメリカで日本人移民に関する「歴史の証言」が増えたのは、1980年代後半から盛んになった「オーラル・ヒストリー」運動(学生が高齢者にインタビューし、人々の個人史をまとめていく運動)や、三世・四世世代が中心となって進められた戦時補償を求める運動(リドレス運動)の影響が大きいようである。このような運動の影響下で生まれてきたと思われる多数の論文や書籍が、本レポート執筆の大きな助けになったことも付記しておく。
2. 本論
2.1 目的
アメリカに渡った移民のすべてが、「悲惨な棄民」だったのであろうか。タケオ・ヒラシマの存在を紹介することで、成功をつかんだ移民の子弟もいることを紹介するのが、本論文の目的である。
2.2 方法
タケオ・ヒラシマの生涯については、まとまった伝記などがあるわけではない。そのため前述の雑誌やWebサイトの記事を基本情報とし、彼の生涯に関係のあるインディ500をはじめとするアメリカのモータースポーツ、第二次世界大戦中に収容された戦時転住所(収容所)、従軍したアメリカ陸軍第442連隊隷下の第522野砲大隊などについても、多数の書籍・雑誌・Webサイトの文章や記事を補強材料として使用した。
とりわけインディ500におけるキャリアについてはBorgson(1996)を、第二次世界大戦前のホットロッドの世界についてはAoyagi-Stom(2008)を、それぞれ主に参照した。
2.3 結果(ヒラオ・タケシマのライフヒストリー)
2.3.1 若きホットロッダーたち
タケオ・ヒラシマは、1912年(1910年と記述したものもある)5月4日、ロサンゼルスの北に接するカリフォルニア州のグレンデールで生まれた。両親は日本からの移民で、この地で野菜と観葉植物の苗を育てる農園を営んでいたという。
少年時代のタケオは、当時、西海岸の若者たちなら誰でも夢中になったというホットロッドにのめり込んでいた。ホットロッドとは、ロードスターと呼ばれる改造自動車でスピードを争う競技で、タケオを含む日系二世の若者たちも、週末になるとロサンゼルス北東部にあるモハーベ砂漠に出かけては、多くのアメリカ人に混じって、改造車を走らせていた。
競技の場所にモハーベ砂漠が選ばれたのは、そこに多数の乾湖があったからである。水が干あがった乾湖は底の部分が平らで、それが何マイルもつづいていた。そのおかげで乾湖は、ホットロッドを走らせるには最適の場所となっていた。とりわけマードック・ドライ・レイクと呼ばれた乾湖(現在は、スペースシャトル緊急着陸用のエドワーズ空軍基地となっている)は、1920年代から30年代にかけて、カリフォルニアに住むホットロッダーたちのメッカになっていた。
当時のカリフォルニアでは日系人の排斥運動が高まっていたが、ホットロッドに熱狂する若者たちの間には、人種的な偏見や差別もなく、日系二世の若者たちも、名門ホットロッド・クラブのメンバーになることができた。
14歳で自動車の免許を取得できるカリフォルニアの若者たちにとって、自動車を自分たちで改造し、スピードを競うことは、ごく自然なことでもあった。タケオも、そんなスピードに明け暮れる毎日を送っていたというが、地元のグレンデール高校に入学後、ここで、のちに彼の人生を大きく変えるひとりの人物と出会うことになる。
その人物の名は、アーサー・C・スパークス。1924年、23歳でグレンデール高校に機械科教師として赴任したスパークスは、それまでハリウッドでスタントマンとして働きながら、T型フォードの改造車を駆ってモハーベ砂漠に出かけては、タイムを競うホットロッダーのひとりであった。
乾湖での走りに飽き足らなくなっていたスパークスは、未舗装の長円形コースで自動車のスピードを競うダートトラック競技への転身を考え、専用のレーサー(競技用マシン)の製作を考えていた。しかし、このようなレース専用車になると、製作にもメンテナンスにも多額の費用がかかる。そこでスパークスは、グレンデール高校に就職して安定した収入を得ると、その大半を競技用マシンの製造に注ぎ込んだ。
スパークスのマシンが完成したのは1928年頃だが、この頃タケオは、グランデール高校でスパークスの授業を受ける生徒であった。スパークスは、タケオの同級生だったセルマ・コールマンという女性と恋に落ち、1933年に結婚する。タケオとセルマは、高校生時代から、お互いをよく知っていた。タケオが応援団の団長で、セルマがチアリーダーという関係にあったからである。グランデール市内にレーシングカーのガレージを構えたスパークスは、速いマシンの作り手として、西海岸のダートトラックレース界でも知られる存在になっていった。
2.3.2 インディ500参戦
1934年5月、24歳になったタケオは、グランデールの雑貨店で働いていたとき、そこに買い物に来たスパークス夫人のセルマに、スパークスのガレージで働きたいと打ち明けた。そのことを聞いたスパークスが、住み込みの下働きでかまわなければと返事をすると、タケオは即座に了承し、すぐに働くようになった。最初の仕事はガレージの床掃除だったという。
熱心に働いたタケオは、すぐに下働きから徒弟制度の弟子に格上げになり、スパークスからエンジンから車体まで、自動車に関するあらゆることを学んでいく。とりわけエンジン関係に鋭い感性を見せたタケオは、この年の末、12月12日にロサンゼルス西方のマインズ・フィールド(現ロサンゼルス国際空港)のダートトラックで開催された200マイルレースにライディングメカニックとして初出場し、いきなり優勝する。初レースで初優勝したとあっては、その後も、ますますレースにのめり込むのも無理はなかったろう。
ちなみにラインディングメカニックとは、レーシングカーの助手席に乗って、ドライバーとともにレースを走るメカニックのことである。性能が不安定だった初期のレーシングカーは、レースの途中に不具合が起きたとき、同乗のライディングメカニックが修理することが許されていた。
日本でも明治の終わりから、晴海の埋め立て地や立川の陸軍飛行場などで自動車レースが開催され、ホンダの創始者である本田宗一郎氏も、丁稚奉公していた自動車修理工場で製作されたレーシングカーのライディングメカニック(日本では「同乗機関士」と呼ばれていた)として、レースに出場した経歴を持っていた。
ともにライディングメカニックを務めた経験を持つ本田氏とタケオの共通点は、どちらも小柄だったということである。タケオは、「チビ」という意味を持つ「チック(Chick)」または「チッキー(Chickie)」というニックネームで親しまれていたが、ライディングメカニックとしてマシンに同乗したときは、規定重量に足りずに鉛のオモリを積むほどだったという。
タケオは、初めてライディングメカニックとして出場した200マイルレースで優勝し、スパークスとともに、さらにレースの世界にのめり込んでいく。
スパークスとタケオが次に選んだレースは、翌年5月のインディアナポリス500マイルレース(インディ500)であった。タケオは、新加入したレックス・メイズが運転するアダムス・ミラー(車体名がアダムス、エンジン名がミラー)にライディングメカニックとして同乗し、予選でポールポジション獲得に貢献した。
決勝レースでは、スタートから100周目までをトップで走るが、123周目、マシントラブルでリタイアとなった。
雪辱を期した翌1936年のインディ500でも、スパークス・チームのメイズとタケオが乗るアダムス・ミラーは、再び予選でポールポジションを獲得するが、決勝レースでは、13周目にトラブルで後退。その後、鬼神の追い上げを見せ、再びトップを奪い返すが、残り7周となった193周目、燃料切れでリタイアし、15位に終わる。
つづく1937年、タケオは、新加入のジミー・シュナイダーが運転するアダムス・スパークス(チーム専用のエンジンを開発)に同乗し、最終予選日となる予選4日目に出場車中の最速タイムを記録するが、ポールポジションは獲得できなかった。インディ500の予選は独特で、1日目に最速タイムを出したマシンがポールポジションを獲得することになっているからである。この伝統は現在も変わらない。
決勝レースでは、19番手グリッドからスタートしたシュナイダーとタケオの乗るアダムス・スパークスは、5週目にはトップに立つが27周目、エンジンのバルブスプリング破損によってリタイアとなった。
レースに熱中するスパークスは、慢性的な資金不足で借金まみれになっていたが、これまでの輝かしい戦歴に目をつけた若者によって、窮状を救われることになる。チームを救ったのは、弱冠23歳のジョエル・ソーンという若き資産家で、彼が乗るマシンのメンテナンスを手がけることを条件に、チームは資金提供を受けられることになった。
ソーンから得た資金でグレンデールに「ジョエル・ソーン社」のガレージを建設したスパークスとタケオは、ソーンのマシン以外にも2台のレーシングカーのメンテナンスを手がけ、その費用をガレージの運営費用にまわすことにした。
翌1938年のインディ500では、この年からライディングメカニックが禁止されたことから、タケオはソーンのメカニックとしてピットに陣取った。ほかに2台のスパークス・ソーンが出場し、うち1台は予選で最速ラップを叩き出す活躍を見せたが、決勝レースでは、惜しくも2台ともリタイアした。
一方、チームオーナーでもあるソーンが乗ったオッフェンハウザーというエンジンを搭載したマシンは、堅実に走り、9位に滑り込んだ。
1939年のインディ500では、ジミー・シュナイダーが乗るアダムス・スパークスが、予選1位、決勝2位の活躍を見せた。また、予選20位からスタートしたソーンも7位に入る見当を見せた。
ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、同盟国イギリスを支援するために軍需産業が忙しくなり、高度な技術を持つジョエル・ソーン社にも、大量の軍需品製造の依頼が舞い込むようになる。そのため1940年のインディ500には、ソーンの乗るアダムス・スパークスを1台出場させるのが精一杯となった。タケオがメカニックを担当したソーンのマシンは、予選10位、決勝では5位の成績をおさめている。
1941年、太平洋戦争前最後となったインディ500では、テッド・ホーンとソーンが乗る2台のマシンを出場させ、ホーンが3位、ソーンはリタイアとなった。
この年の12月7日(アメリカ時間)、ハワイ真珠湾が日本海軍の機動部隊から発進した航空部隊によって攻撃され、タケオの運命も急展開する。
2.3.3 収容所から第二次世界大戦に従軍
太平洋戦争の勃発により、アメリカ国内のモータースポーツはすべて中止され、ジョエル・ソーン社も軍需部品の製造に専念するため、レーシングカーはハリウッドの貸しビルにしまい込まれることになった。
さらにタケオたちには、大きな運命の変化が待ち受けていた。1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領が 「大統領行政令9066号」に署名したことから、アメリカ西海岸に住む11万2,000人の日本人(うち日系二世は7万5,000人)が、「戦時転住所」という名の収容所に送られることになった。
タケオの一家も、カリフォルニア州中部のシェラ・ネバダ山脈を望むマンザナ(マンザナール)のキャンプに送られ、1万2,000人の同胞とともに、鉄条網の中で暮らすことになった。
タケオの一家とも親しく交際していたスパークス夫妻は、ヒラシマ・ファミリーの様子を心配して、マンザナまで車で出向いたという。
1920年代から30年代にかけて、モハーベ砂漠でスピードを競った日系のホットロッド愛好者たちも、各地のキャンプに収容された。日系二世のホットロッド仲間のことを心配した白人の友人たちは、スパークス夫妻と同様に、キャンプに日系二世のホットロッド仲間をたびたび訪ねたり、日系の仲間が大事にしていた改造車を戦争が終わるまで預かったりしたという。その改造車は、戦後に再開された乾湖での競技で、すぐに走行できるほどに、丁重に手入れされ、保管されていたとのことである。
翌1943年、タケオは志願してミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに移る。ここはアメリカに忠誠を誓い、第二次世界大戦に従軍することに同意した日系二世の訓練キャンプでもあった。
このときタケオは33歳であった。従軍年齢としては高齢になるが、所属したのが有名な陸軍第442歩兵連隊に付随する第522野砲大隊であったことを考えると、レースメカニックとしての知識と経験を活かせる場所として、この大隊を志願したのではないかと推測される。
タケオは、第522砲兵大隊に所属するC中隊の一員として、イタリア、フランス、ドイツを転戦したはずだが、戦後になってモータースポーツ・ジャーナリストが、従軍体験を質問しても、他の日系二世従軍経験者と同様に、「多くの戦闘を繰り返しました」というだけで、詳しいことは黙して語らなかったという。
第二次世界大戦に従軍していた二世だけでなく、収容所に入れられていた一世や二世も、戦時中のことについては語る人は少なかった。
1960年代、アメリカ国内で公民権運動が盛り上がり、親の世代の強制収容や従軍体験を知った三世の世代が、無抵抗で政府の決定に従ったことを追求したこともあるが、一世・二世の大半は、それでも沈黙を守り通した。
生き残っていた二世の世代が、ようやく戦場や収容所での体験を語りはじめたのは、1988年、ロナルド・レーガン大統領が、「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名し、戦時中に収容所に収容された日系アメリカ人に謝罪すると同時に、生存者に補償金を支払った後のことである。
2.3.4 戦後の栄光
1946年に復員したタケオは、すぐにスパークスに連絡を取った。さらに、東部に住んでいたジョエル・ソーンにも連絡をとったタケオは、ソーンから思いがけない提案を持ちかけられた。ソーン、スパークス、タケオのトリオによるレーシングチームを復活させ、この年の5月に再開が決まったインディ500に参戦しようというのである。
スパークスとタケオは、すぐさま、この提案を受け入れ、ハリウッドの貸しビルに保管してあったアダムス・スパークスを引っ張り出すと、入念に整備してインディアナポリスに向けて送り出した。スパークスは、チーフエンジニアとして、ミラー社でエンジンを設計していたエディ・オファットを招き、その下でタケオが現場の指揮をとる態勢をとった。
2台のアダムス・スパークスのうち、1台にはジョージ・ロブソンが乗り、もう1台には、ドイツ人のルドルフ・カラツィオラが乗ることになった。カラツィオラは、戦前、ヨーロッパのグランプリ・レースで、メルセデス・チームのエースとして何度もチャンピオンを獲得していた高名なドライバーだったが、予選の最中にクラッシュし、数日間、意識不明となる重傷を負ってしまう。
そのためインディ500の決勝には1台しか進めないことになったが、さらに悪いことが重なった。チーフエンジニアのオファットが、心臓発作を起こしてしまったのだ。そのためタケオがピットの指揮をとることになったが、担当したロブソンが、終盤まで2位となったマシンと激戦の末、優勝をもぎ取ることに成功したのである。スパークスとタケオのチームにとっては、1935年に参戦以来、7回目にして初の優勝であった。
ソーン、スパークス、タケオのトリオは、インディ優勝という所期の目的を達成したことから、ここでチームを解散する。タケオは、そのエンジン・メンテナンスの腕を見込まれ、インディ500に出場するマシンがこぞって使うようになっていたオッフェンハンザー(オッフィー)・エンジンの販売会社に招かれ、エンジン最終組み立ての責任者となった。
しばらくレースから離れていたタケオは、1955年、レーシングカー製造業者のA.J.ワトソンに、エンジン担当のメカニックとして招かれ、久しぶりにインディ500のピットに入ることになった。このときタケオがメカニックを担当したマシンが優勝。さらに翌56年も、タケオが手がけたマシンが優勝を果たした。
インディ連覇のあと2年のブランクを経て、1959年、ワトソンのチームに戻ったタケオは、ワトソンとともに新型車を製作するが、このマシン2台が、59年、60年とインディ500を連覇する。いずれも1-2フィニッシュという輝かしい成績であった。
タケオの手がけたマシンは、61年は3位に終わったが、62年には、またも優勝。タケオは2位のマシンのチーフメカニックをつとめていたが、優勝者のエンジンもタケオが整備を担当したものだった。
その後、タケオは、スパークプラグ・メーカーのノースライト社に招かれ、アメリカ国内を転戦するインディカー・シリーズの会場で、出場マシンのエンジン整備に助言を与えるアドバイザーとなる。さらに、インディカーの主力エンジンがフォード・コスワース製になると、このエンジンを使うユーザーにアドバイスを与える職務を担当するが、1970年代に入って健康を害し、1980年12月25日(1981年1月23日とするものもある)、ガンのために永眠した。
タケオ・ヒラシマの名が日本でクローズアップされたのは、前述のとおり、1996年、インディ500の殿堂入り候補者として名前と経歴が発表されたときのことである。この年は殿堂入りを認められなかったが、2年後の1998年に殿堂入りを果たした。
インディ500をはじめとするアメリカのモータースポーツには、タケオのほかにも多数の日系人が、ドライバーやメカニックとして関わっていたが、そのうち最も有名な人物はラリー・シノダ(1930-1997)であろう。ロサンゼルス生まれのシノダは、少年時代をヒラシマと同じマンザナ収容所で過ごしていた。1950年代にホットロッドに熱中したシノダは、ドライバーとして全米選手権で優勝を果たした後、美術系のカレッジに進み、その後、自動車のデザイナーとして活躍した。代表作には、シボレー・コルベット、フォード・マスタングなどの「名車」がある。
3. 結論
日本人移民に関する論文や著作を読むと、アメリカ合衆国に渡った日本人移民は、アメリカの排日移民法に代表される人種差別的な移民規制や、太平洋戦争中の強制収容所への隔離なども含め、苦難の歴史を歩んできたというイメージが強く訴える内容のものが多い。
しかし、それほどにひどい差別があったのなら、どうして日本人移民は日本に帰国したり、あるいは他国に転住したりしなかったのかという疑問をかねがね抱いていた。ハワイやメキシコ、南米など、他の地域に移住した日本人移民の中には、アメリカに再移住する人々が多かったが、これは、アメリカが、日本や他の移民先に比べて、まだ「まし」だった事実を示してはいないだろうか。
そのような疑問に対する回答のひとつとして、戦前から戦後にかけて、ホットロッドからインディ500を含むモータースポーツに関わっていた二世たちが、どのような状況にあったかを調べてみた。
確かに排日の機運は高かったかもしれないが、モータースポーツに熱中していた人々の思い出話のなかには、ヨーロッパ系もアジア系も関係なしに、仲間として互いを尊重し合っていた様子がみてとれた。そのような環境だったからこそ、二世たちもモータースポーツに熱中できたのであろう。そして、モハーベ砂漠の乾湖で繰りひろげられたホットロッド競技の場には、間違いなく「青春」があったのではなかろうか。少なくとも、このような「自由な遊び」は、日本の若者には真似のできないことであった。戦前の日本では、普通の家庭に生まれた若者が自動車を乗り回すことなど、夢のまた夢であったはずである。
人種差別政策、第二次世界大戦における強制収容所での生活、第二次世界大戦への従軍など、日本人一世、二世がたどった道は、苦難と呼ぶに等しいであろうが、それでも彼らは、困難を乗り越え、日本にいたら味わえなかった生活や成功を手に入れたように思われる。
写真花嫁として渡米した一世の女性たちは、収容所に入るまで、日々の労働や家事に追われ、休暇というものをとったことがなかったらしい。収容所に入って初めて自由になる時間を手に入れた彼女たちは、英語や生け花、洋裁などを習い、収容所内に学校ができるとPTA活動でも重要な役割を果たしたという。この体験が、新たな戦後の生活を手に入れるための準備期間になったと述べた収容所体験者の記録もある(北川 1986)。
11万人以上もいた一世、二世のすべてが、同じ考えや体験をしていたわけではないはずである。すべての移民が悲惨だったというわけではなく、また、悲惨だったとしても、みずからの手で困難を克服していった一世、二世が多かったことも伝えられてよいのではなかろうか。
タケオ・ヒラシマは、インディ500のサーキットなどでも、「チビ」を意味する「チック」や「チッキィ」というニックネームで呼ばれることが多かったというが、彼の雇い主であり師匠でもあったスパークスと彼の家族は、タケオのことをファーストネームで呼び、ニックネームを使うことはなかったという(Borgeson 1996)。このような人種を乗り越えた信頼関係は、ほかにも多数、紹介されている(ツカモト&ピンカートン 2001など)。
タケオ・ヒラシマやラリー・シノダに見られるような「成功した日系人」「幸福な生活を送った二世」の例が多く紹介されることで、日本人移民の多様さ、多彩さが、より明確になることを望んでやまない。
4. 参考文献&引用文献
Aoyagi-Stom, C. 2008 The Legendary Nisei Racers -- Nisei hot rod racers of the 1920s and 1930s made their mark in a racing world surprisingly free of discrimination. http://www.urbanmozaik.com/2008.November/08nov_fea_10.racers.html (2009年7月5日確認).
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