見出し画像

すぅさんの想い

初めまして!すぅさんです。noteを見て頂いて嬉しいです。たぶん、このnoteは、ほとんどの人がTwitterから来て頂いているかと思います。

Twitterでは色々とお友達になって頂きましてありがとうございます!

すぅさんは、Twitterを2019年8月から始めて、2020年3月には1万フォロワーさんとも繋がり、リアルで仲良くなった人もたくさんできました。始めた時は、こんな世界があるなんて全く思っていなくて、本当にTwitterを始めて良かったと思っています。

そんなTwitterですが、実は始めた目的というのは、MSP(マキシマムステートプログラム)と言って、100年時代を生きるライフシフトに対応した

 "脳を最適化しアップデートする” 新時代の✨脳力開発プログラム

を広めたくて始めました。老若男女の健康寿命にも役立つのでこれからの時代に必要だと思っています。

画像1

色んなSNSがあるとは思うのですが、今まで触ったことないTwitterでやってみたらどうなるんだろうと興味本位で始めたのですが、気付いたらオフ会を企画したり、Twitterラジオを始めたりと本当に楽しいです。

そんなすぅさんも今までもTwitterラジオで少し自分のことも話しをしていたのですが、今回、自分の人生を振り返りながら自己紹介をしたいと思いますので、よろしくお願いします。

1 楽しい幼少時代

すぅさんは3世帯家族で八百屋の次男として生まれ、実家が自営業というのもあり、生まれてすぐに保育園に入りました。両親からの十分な愛情をもらってなかったからなのか、毎朝、起きたら母親を呼んではすぐに来てくれない度にションベンを垂らしたり、スリッパを放り投げたりと、よく母親を困らせていました(;゚ロ゚)

保育園では、運動能力に恵まれていたので、保育園内での縄跳び競争では、100回以上で誰よりも飛んでいたり、リレーでは足が速いからアンカーをしたりと運動少年でした。プールに関しては基本カナヅチではありましたが、積み木取りゲームでは誰よも積み木を取ってつなげていって、途中つなげていたのが長すぎて外れていたのに気づかずに時間が終わって見たら全然積み木がなかったというおっちょこちょいな保育園児でした。

他に印象的だったのは、保育園なので親のお迎えが夕方以降になることが多く、自分もそうだったのですが、お迎えが毎回暗くなってからぐらいで、自分より小さい子がまだその時間までいたら寂しくならないように一緒に遊んであげていたなぁと記憶しています。

小さいときから何か相手の気持ちを察して自分ができることを何かしてあげたいという気持ちをもっていたかもしれません。

2 身内に悩む小学生時代

小学生時代は、低学年の時は、とにかく頭が悪かったです。授業を聞いてもあまり理解できず、ノートは表から書いたり裏から書いたりとむちゃくちゃな使い方したり、鉛筆も両方から削って使いにくくしてたり、忘れ物は何かと忘れていて、毎回放課後は居残りさせられてました。

ただ、明るくて、足は速く運動はよく出来てたので、小学生によくいた運動だけできる子どもになっていました(o゚∀゚o)

スポーツは、兄がしていた少年野球をしたり、友達から誘われたバスケなどをしてよく遊んでいました。

小学校5年にもなると親も心配になってか塾へ行かすようになり、今までしていたスポーツをする時間が日に日になくなっていきました。塾に行ってもそこで友達を作って楽しく過ごしたり、女の子には小学生あるあるのイタズラとかして、塾で出会った友達と遊んでいたのも本当に楽しかったです。成績でいうと少しずつですが良くなっていってクラスも上がったりとそれなりに成果も出していました。

学生生活は楽しかったのですが、家の中は色々と大変でした。

    1つは、兄弟喧嘩、もう1つは曾祖母のボケ問題です。

男兄弟がいる人は分かると思うのですが、もう兄弟喧嘩は常にありました。2歳離れた兄なので年も近く、ゲームで勝負したら、勝ち負けですぐ喧嘩、2歳も離れているから腕力にも差があるからまず勝てない。ホンマに途中からもうゲーム一緒にするのやめましたね。😂何より、後で分かったんやけど当時、兄貴はどうもいじめられていたみたいで、その腹いせに弟をいじめていたという事実がありました。そりゃ、家庭内弱いものいじめがありましたからね、当時はホンマに嫌いでした。

中学にいった兄は受験して私学へ行ったのでそこからは学生生活を楽しみ、すぅさんへのいやがらせもなりました。兄は、すぅさんと違って頭が良く、要領がいいと思っていた反面、ナゼか弟に弱い者いじめをする意味がホント全く分からなかったので、分かった時には逆にかわいそうだったんだなぁと思えました。ちなみに、今は兄とは仲は良いですよ🌝

さて、そんなすぅさんも塾で偏差値を上げて、中学受験に勝負しました!3,4つ受験しました。もぉ、ほんとぉぉぉ~っに、まぁぁぁ~ったく、手応えなしでした。

はい、全部落ちました(*^▽^*)こうして、公立中学へ行くことになりました。

そして、もう一つが曾祖母のボケ問題です。当時、90歳も後半になっていて完全にボケちゃんになっていました。当時は小学生ですから、バカにしていたかもしれません。だって、自分たちのことを認識しているのかも分からない、自分の便をたぶん垂れ流しでリビングのそこらじゅうに気付いたら糞まみれになっている状態。最終的には家が3階建てでフロアの外側に階段を設置していて曾祖母はリビングの2階にいたので、外からドアの鍵を閉めて、1階や3階に来させないようにしていました。子どものときの自分はあまりなんとも思わなかったのですが、両親や祖母は本当に大変だったと思います。

自分が大人になってこの大変さを味わうことになるとは思ってもみなかったです。これはまた後半に書きます。

そんな小学校時代を過ごしていました。

2 イジメにあった中学生時代

そんな小学校時代を過ごし、学生生活で言うと楽しかったのですが、中学時代は、まさか暗黒時代を過ごすとは思いもよらなかったです。。。

       すぅさん、イジメに遭うってよ

です。

最初のキッカケは、、、、何個あるねん!ですが、2つなので、お話にお付き合いください。

そう、最初のキッカケなんですが、もう、ワケ分からないのですが、ある日、クラスで友達とおふざけしていたら、クラスの一人の不良がどうも関係ないのにカンにさわったみたいで、脅しの学生生活が始まりました。これはイジメになるのか分からないんだけど、とにかく目に入ったら近づいてメンチ切ってきたり、無言の圧力をかけてきたりと、純真なすぅさんにはもうそれが毎日耐えれなくて定期的に怖くて泣いてたなぁ、、、ホント。そうそう、なんかその不良の別クラスにいた連れも途中から加担してきて、ほんとめんどくさかった。めんどくさかったというのも、実は、その不良は1年で転校するという奇跡が起きて幸せな学生生活が戻るかと思いきや、今度は、加担していた不良が引き継ぐかのようにやってきてたので、2年目は、休み時間はとにかくクラスにいてたらやってくることが多かったからギリギリまで校内のどこかに身を潜めていました。

暴力こそは一人目も二人目もなくて良かったのですが、二人目のときは、かつあげが始まったのはホント辛かった。その時のこづかいは、確か月に2,3千円ぐらいだったかと思うんだけど、5千とか1万を要求してくるから、ないって話し。なんだろうな、とにかく貧乏の設定にして月に500円しかもらえないということを訴え、なんだかんだでかつあげはされたけど、500円も2回とか3回ぐらいで終わりました。不良だけど良心があったんかな?バカだったのかな?ずっと怖かったし、嫌だったんだけど、なんか乗り越えることが出来ましたね。

あっ、2つって言ってたのに、まだあったよ。。。今までの1人目、2人目も相手とすぅさんの1対1のいじめだったんだけど、3人目も結論、1対1でした。

  特にこのキッカケが初めての人間不信に陥ることとなりました。

それは、ある日、友達3人で帰っていた放課後、友達の一人が向こうからクラブ活動で走っている人に向かって「〇〇〇~」というなんかあだ名みたいな名前を文字った呼び方で、呼びながら笑って帰っていたことがありました。

後日、その笑われてた男が怒ってクラスにやってきた。

「この間、あそこで笑ってた奴誰や!誰が〇〇って言ってたんや!💢」

あのとき帰ってた3人がようは呼び出され詰められてました。すぅさんもからかっているつもりではなくて、確かに一緒に呼んでいた事実はあったから、「確かに言ってたけど・・・」

「おまえか!💢」

「いや、言ってはいましたけど・・・」

そもそもあの帰り道、この不良の存在なんてそもそも知らんし、友達が言っていたことを一緒に言ってただけで、不良だったことも知らんし、何者かも知らんかったぐらいだったのですが、要するに、すぅさんだけが言ったような濡れ衣を着させられました。友達を守る為に言ったけど、友達も言ったと言ってリスク分散と思ったのですが、一人で背負うことになりました😂

そこから1人目のとき同様に、脅しの生活がはじまりました。しかも2人目と友達だったからセットでやってくるときもあり、もうホントに辛かった。担任の先生に相談してもなーんの解決にもならず、自分で乗り越えるしかなかったです。

濡れ衣を着させた友達にいたっては、何食わぬ顔で見て見ぬ振りで、この時に人間不信になりましたし、人はこうして裏切るんだなと勉強になりました。

ただ、こうして3人もの不良に代わる代わるにイジメられながらも乗り越えることが出来たのが、この3人に共通しているすぅさんの友達がいて、毎度というかあまりにもひどそうな場合は、間に入って抑えてくれていたというのもあって、本当に感謝感謝でした。

捨てる神あれば拾う神ありじゃないけど、人に恵まれている面もあるなぁとこの当時を振り返ると本当にそう思います。

まぁ、本当に中学時代は暗黒の時代で楽しくなかったなぁと思います。高校に進学してもちょっと人間関係にひきづっている面もあったかと思います。


3 らしさを取り戻した高校生時代

高校生活スタートしたときは、中学で傷ついた人間関係を引きずってはいたのですが、すぅさんなんだかんだで運が良いと思うのですが、そこのクラスで出会ったのが、小学校時代の塾の友達がいたんです!とても明るい女子で一瞬で傷も癒やされ、クラスでの友達も一瞬で作ることができました。高校生活は甘酸っぱい思い出ばかりです。そうそう、小学生の時は足が速くて明るいからモテてたのですが、中学からはルックスもイマイチであんなこんなのがあったからモテるわけもなく、高校生になって心機一転てな感じでしたが結論、恋が成就することはありませんでした。

当時の恋話しでいうと、2つだけ。1つは、高校2年の時、すぅさんは準特進クラスという所にいてて英語の授業のときだけ準特進クラスの生徒は、ナゼか特進クラスの部屋へ移動して授業を受けていました。(特進クラスの生徒は別の部屋で他の授業を受けている)そんなすぅさんが特進クラスのある女の子に恋をしていたとき、その子と話しもしたことがなくて、何か接点もてないかなぁーと考えてやったのが、机の落書きの交換メッセージ✒

昔でいう文通?ネット掲示板?ネットでのチャット?みたいな感じだと思うのですが、今、思うと相手からしたらちょっとキモかったですね(笑)授業から戻ると自分の机に一言二言のメッセージが残されているんですから💦

そんなことなんて全く感じないままでもでも数回それでメッセージのやりとりを繰り返しました。最後に、好きですというメッセージを残して終わりました。正確に言うと、そこからどうしていいか分からず終わらせてしまったって感じですね。みなさんもこんな経験ないですか?🌝

あと1つは、高校3年のときにクラスの女子に告白しました。これもまたなんだかなぁ~って感じなのですが、その子は高校1年の時から彼氏がいて、その彼氏はすぅさんの小学校時代の塾で仲良くしていた友達でした。世間は狭いですねぇ。その彼と高校3年に別れたみたいで、それまで恋心を持ちながらも仲良し友達として過ごしていたのですが、何度か彼女の家に電話をして、相手のお兄ちゃんが出て汗をかきながら呼んでもらったり、お父さんが出て、あたふたしながら呼んでもらったりして、そんな電話で何度も話しをしている中で告白しました。「好きです。」と。

相手からも「少し考えさせてほしい」という返答から数日経った日曜日にデートすることになりました。しかも彼女の部屋の中で・・・

部屋の中でほんとたわいもない会話をしてたと思います。中学時代のアルバム見たかったのですが、それはひたすら拒否されていて、「元不良なのか?」とナゼかそういうことを思っていたことを記憶しています。結局、その部屋で何かしたわけでもなく会話とジュースを飲んで外へ出かけました。

公園のベンチで話しをしていて彼女から返事を切り出されました。

 「今、受験のことに集中したいから付き合うとか考えられない」

フラれました。まぁ、勝機なんてなかったし、当然だったかもしれませんが、今もなお謎なのが、なんで部屋に招いてくれたんだろう?逆に誰かに見られるのが嫌だったとか?まぁ、そんな淡い記憶を持ちながら、でも、フラれたあとも普通に友達として楽しんでたし、フラれたけど今では良い思い出です。

高校時代の思い出は、恋話や、別宅で友達と集まってカードゲームで負けたやつがクラスの女子にイタズラ電話するとか、今だったら個人情報で絶対家の電話なんて公開されてないけど、当時は普通にクラスの連絡簿で知っていたからそんなゲームでの罰ゲームで女子宅電話して楽しんでいたなぁ~なんてnote書きながら懐かしくなってしまいました。

すぅさんなりの甘酸っぱい青春時代の高校生活でした。

4 価値観を見つめ直した大学時代

すぅさんは、近畿大学の理工学部数学物理学科数学コースを専攻して4年間過ごしました。授業中は前から1列目か2列目に座り、授業中はよく居眠りをして、ランチは大盛り定食を食べ、授業中はまた居眠りをし、帰る。そして、テストが近づいたらマジメな友達にノートを見せてというと「授業でてたやん」と嫌な顔をされながらノートを借りてテスト期間のみ猛勉強して単位を取っていた学生生活でした。大学での思い出はホントないです(笑)

大学時代に初めてやったバイトが本当に良い経験をさせてもらいました。最初のバイトはレストランの厨房です。元々、すぅさんは料理をするのが好きで、やるならそういう調理に携われるところがいいなぁ~と思ってバイトしました。主に揚げ物担当。そして食器洗いと、裏側を知ることができて良かったです。ただ1ヶ月で辞めました!なんでかというと、バイト仲間が楽しくなかったからです。好きな調理に携わってはいたけど、それ以外に仲間とか繋がりとかも求めていたんだと思います。

    「もうすぐ試験で集中したいので辞めさせてください」

なんちゅう言い訳や。てな感じで初めてのバイトは1ヶ月で終わりました。てか、高校時代にフラれた言い方と似てるやん(笑)

それはさておき、2つめのバイトは近所の漬物屋のパック詰めのバイト。初めてのバイトを辞めてから全然何もしてないところで、この漬物屋の人からの依頼があって夜からの2,3時間だからまっいいかと思って始めました。淡々とやるパック詰めの作業、無機質な仕事な感じではありましたが、空気を上手く抜くために、もっと早くするために、もっとラクにするためにとやりながら考えて楽しむ努力をしていたなと思います。だけど、結果3ヶ月ほどで辞めました。原因は手が荒れたからです。漬物を漬ける液が肌にキツくて手荒れがひどくなりイタすぎてどうにもならなかったので辞めました。

4月に最初のバイトで1ヶ月、次に6月に2個目のバイトで3ヶ月。そこからまたバイトは何もせずに家と大学を行き来する生活が始まりました。すると、2月頃に友達のお母さんからとある場所の警備員のバイトを勧められました。そのお母さんはそこで働いているみたいで、そこから見ている警備員はラクな仕事してるという印象だったので、バイトしていない自分をみかけて募集をしているからと声をかけてもらいました。

確かにバイトしてないからまぁ、いいかと思ってバイトを受けにいきました。するとかなりの応募があったみたいで、警備員の募集で受けたのですが、すぅさんは保安部員というバイトの面接になり、そのまま採用となりました。

この保安部員のバイトがすぅさんの価値観を見いだされたとおもいます。


それはそれは超スパルタで厳しい世界でした。そりゃ【安全を守る:保安】ですから、生ぬるい気持ちではダメですよね。ただ、そんなことを教えられないまま採用されたので驚きの連続でしかなかったです。

バイトの部屋は常に緊迫したムード、世間話は禁止、しゃべるときは横の人とのみ小声で、椅子の背もたれは使わない、朝の挨拶は全力発生、お茶づくりに先輩のお茶がなくなってそうならお茶をつぎにいく、巡回の時間が近づいたら先輩に時間を知らせに行くなどなどまさに体育会系の世界でした。

それだけじゃなく、今の時代では完全にパワハラ行為も多々アリ、見方を変えれば常に緊張したムードと礼儀礼節を鍛えるという言い方もありますが、とりあえず今の時代なら完全アウトなことが目の前の光景に日常茶飯事に繰り広げられて・・・💦

実は、当時の保安部は採用40名だったのですが、最初のバイト業務終了時に、バイトのトップの人が「辞めたい人は来るように」と言ったらドカドカドカドカ!と列が並ぶこと20人!?1日で半分が辞めました。

2日目では、さらに半分の10人。3日目になると出社拒否者も現れて、1ヶ月経った頃には40人だった新人が5人だけになりました。

でも、本当に厳しかったんです。辞めて当然だと思います。すぅさんも確かに怖っっっって思いながらバイトをしてたのですが、

なんでこんなに厳しいのに周りの先輩は辞めてないんだろう?どこに楽しさとかがあるんだろう?

という思いのほうが強くてバイトをがんばってました。すぅさんもめちゃめちゃキレられてましたし、辛いことばかりでしたが、結局大学2年の4月から始めて大学卒業するまでの3年間そのバイトを続けていました。

思い出がたくさんありすぎてどのシーンを伝えようかと思ったのですが、ここで学んだことというのは

①競争意識

②アメとムチ

③初体験

④仲間

この4点だと思います。

①競争意識については、バイトの中でも同期や先輩と優劣がつきます。実際に定期的に行われる班分けでは等級が設けられてそこで先輩後輩関わらず実力で等級分けされます。バイトではありますが、完全に仕事です。業務の遂行度、チーム貢献度、全体の巻き込み力、業務責任度、などなど業務の中や業務外も含めて評価がされます。まずは同期1番に評価されること、そして先輩も抜いて等級を上げること、その為に仕事の工夫や先輩の良いところのマネするなど大人として必要なマインドが鍛えられたと思います。

②アメとムチについては、ここのギャップがスゴかった。仕事中は何度もいうように厳しかったです。仕事のミスで泣かされたこともあるし、もちろん等級が上になって泣かしたこともありました。ただ、ここで学んだのは泣かす泣かさないということではなくて、怒りではなくて叱りの重要性を学びました。感情に身を任せて言うのではなく、相手のことを思って注意する、そしてその後のアフターケアもしっかりする。ご飯に連れて行って諭してくれたり、遊びに行ってストレス発散を促してくれたりと人と人が繋がるってことの大切なことを学んだと思います。

③初体験については、これはめちゃめちゃ重要です。コンパで女性と話すという経験もさせてもらったし、、、そうそう、最初は初対面の女性となんてしゃべっていいか分からず無言が続いて、先輩がたくさんフォローしてもらったのも懐かしい。あとは、ナンパの経験もさせてもらったし、すぅさんがナンパして京都の鴨川で先輩と2対2でしゃべって、先輩はその人と結婚するとか、マジなんちゅうキッカケを作ったんやって笑ってしまったけど、あれも本当に良い経験やし、ジュースおごるジャンケンとか、20,30人と焼き肉へ言って30万ぐらいの焼き肉代を誰がおごるのかをジャンケンで決めるというジャンケンで手が震える経験もさせてもらったし、他にも色々あるんですが、振り返ると

    人間が生きるために必要なことって結局は経験なんだ

と思います。例えば、そういう女性に関する経験をさせてもらったおかげで、彼女もできたし、新歓コンパを企画して大学1年女子30人集めてイベントしたし、出会い系で初体験まで結びつけたし、当日コンパを2つセッティングしてコンパからコンパへ移るというイベントも実施したし、他にも色々あるんですが、【経験】によってメンタルが強くなって積極的になれたし、対応力も上がったし、これも全ては ” 初体験 ” が色々できたから生まれた効果だと思います。それを実感してから今も色んな初体験を積極的にしていこうと思ってますし、みなさんにもとにかく失敗上等の気持ちでたくさんの初体験をしてもらえたらって思っています。

④最後に仲間ですね。これは本当にかけがえのないモノだと思います。バイトで上手くいかなくて叱られて悔しくて涙したこともあるし、みんなとこれからのことを議論して熱くなって喧嘩して涙したこともあるし、辛いときに支えてくれたこともあるし、それもこれも仲間がいたからできたことだし、絶対一人では乗り越えれなかった壁も仲間のおかげで経験もできて乗り越えることもできたし、仲間の大切さというのをこのバイトで心底知ることができました。

そんな経験をしたからすぅさんは強くなれたと思うし、社会人生活も何も怖くなかったです。

5 人生のライフチャート

ライフチャート画像

ここからは、社会人になって今まで、そしてこれからをライフチャートにそって話しをしたいと思います。

22歳 新入社員としてスタート

大学時代のバイトで生きる上で大切なイロハを学び社会人生活をスタートさせました。すぅさんは、この当時、事務のようなパソコンカタカタする仕事は嫌だなぁと思っていました。大学の専攻でいくと普通は教員という道が王道だと思うのですが、すぅさんのミスで教職課程の授業を受けてなかったので先生になる道は大学3年の時に途絶えました。あはは~マヌケでした!

それで、何の仕事しようかなと思ったときに、人と関わる方がいいから営業の仕事しようと思い、また料理に携われる方がいいなぁと思ってそういう仕事に就きました。分かりやすく言うと調理器具の実演販売です。

集客の営業活動をしながら調理器具の使い方の勉強、営業トークの勉強、調理しながらのコミュニケーションの勉強をしながら販売をがんばっていました。営業は楽しいですね。同期10人ほどいましたが、がんばる者、がんばらない者、グチを言う者と分かりやすいぐらいに分かれていて、すぅさんは、がんばる同期と競争しながらやってました。すぅさんは、パワー営業で新規をひたすら集客して営業するスタイル、ライバルは顧客に紹介してもらって販売するスタイル。お察しだと思いますが、すぅさんがパワーで販売数を増やしている横で、紹介で一気に販売数を伸ばすライバルに鼻息荒く、でも切磋琢磨しながらやっていたあの時の営業は本当に楽しかったです。ライバルは先に支店を任されるようになりましたが、すぅさんも遅れること3ヶ月ほどで支店を任されるようになりました。

24歳 支店運営の苦悩

とにかく最初の2年間は営業にひたすらがんばって支店を任せてもらったもののこれが本当に大変でした。いわゆる、今までは自分でなんとかしたら良かったのですが、支店を持つということはそこにスタッフという他人が関わり、自分とは違う考え方、価値観、同じようにしてもらえない、売上げも上がらないという悩みスパイラルに入りました。

そこからすぅさんは、自己啓発であったり、スタッフの能力を上げる為にどうしたらいいのかと自分を高めることと相手の能力を高める方法をひたすら勉強することとなりました。

すぅさんは、人が好きで、幼少の頃に年下の子の面倒を見ていたように、やっぱり関わる人の力になりたいという思いがあって、でも営業という世界にいると成績が出ずに悩む人、テンション低い人などがいはるので、そういう人のメンタルを向上させれたらいいなぁと色んなセミナーに行きました。

心理学・退行催眠・レイキ・右脳開発トレーニング・カウンセリング

などなど色んな先生のところへ習いに行っては職場で実践を繰り返していました。でも、人ってそんなにすぐに変わるワケはなく、少しずつ少しずつは変わっていくのですが、支店を任されている以上、売上げありきの運営でそこのスピード感に持っていくことができずに本当に苦しみました。

偏頭痛は当たり前に日常にあって、思い詰めたときには血尿が定期的にでて完全にストレスにやられていました。さすがに血尿が出たときはマズいなと思いましたが、結局は気合いと根性で過ごしていました。

26歳 成果が実った

採用したスタッフの業務態度が悪く、朝礼の態度も悪く、声を荒げて叱り空気を悪くした時期も多々ありましたが、イチからのスタッフ採用と教育を見直して、さらにスタッフとの時間を積極的に取っていったこともあり、スタッフがその時間に期待に応えてくれたおかげで、そこの支店が初めてキャンペーンの売上げ目標を達成することができました!約2年以上かけてここまで作り上げることができたこと、これは本当に嬉しかったです。既存スタッフとイチから採用したスタッフの成長が刺激しあって成し遂げた成果、【みんなもやればできる!】が実感できた思い出だったと思います。すぅさんも手応えを感じこれからの支店とスタッフの成長イメージを感じながらこれから超楽しみと思っていました・・・が、、、この状態は長くは続きませんでした。

27歳 異動で運命が変わる

達成してつかの間、異動が命じられました。売上げ最低支店Aへの異動。その支店Aは、当時部下であった人間が昇格し任せられていた支店でありましたが、一向に売上げが伸びていない支店Aでした。

会社から期待されてるやん!だからそういう支店Aに異動でしょ?

って普通はそう思いますよね。確かにきっとそうだったと思うのですが、自分としては納得がいかなかったんです。積み上げてきた投資、これから回収するという段階で取り上げられた気分。しかもその投資と思っていた労力、時間は浪費に変わったんです。

というのも、支店を任された段階で給与体系が変わり、分かりやすく言うと任された支店によって年収が変わるんです。つまり、いよいよ年収が変わるステージが整ったところでまたイチからのスタートになったんです。

最初は、それでも納得しようとしました。理解しようとしました・・・が、そこには、あの大学時代に感じた仲間としての気持ちを感じることが無かったんです。異動して最初の会議からナゼ売上げが低いのか詰められ、支店売上げによって給与が変わることへの配慮もなし、さらには、異動前にいた支店は売上げ順調で後輩が褒められるという景色。

この景色を見てからすぅさんのこの会社の未来が見えなくなりました。どんだけがんばっても異動した先の売上げだけで評価され、売上げ高い所から低いところに異動したら明日は我が身とばかりに状況が一変。平日も朝早くから夜遅くまで、土日休日も返上していることも多かったのがバカらしくなってしまいました。

27,28歳と30歳に近づくにつれて自分の人生を考えるようになり、今の会社を辞めて起業をしようと初めて考えました。

ライフチャート画像

29歳 2社目へ転職

2009年10月に2社目へ転職をしました。さっき、起業を考えたと書きましたが、結局起業する為にどうしたらいいのか、そもそも起業する上での武器も何も持ってないなと思って、起業を断念し転職という道を選びました。

転職するときには、1社目が土日も働いていたので、土日完全休みの方が良いなと探してはいたのですが、あまりピンとくるモノはなく、転職エージェントの人からも色んな記事をもらうも1年以上スルーが続いていました。

「練習かねて面接だけでも受けられてみたらどうですか?」

営業していたので、面接の練習なんて要らないって思ってたし、話しさえできれば転職できるって思ってたのでそれも一度スルーしたのですが、ナゼかふと、「もし練習だったらどこ受けようかな?」という気持ちになり、気になる所へ面接に行きました。

そこでいきなりの社長面接だったのですが、社長の雰囲気と話しがおもしろく勤務条件とか仕事内容とか度外視でこの人と働いてみたいなという思いになり、めでたく採用の連絡を頂いて、速攻会社を辞めて転職しました。

今までは、BtoC での営業をしていたのですが、BtoB の営業に変わり、慣れないことが多く、最初の4年弱は営業成績も鳴かず飛ばずでどうしようもなかったです。仕事はでも楽しいし、職場の仲間やイベントも楽しいし良かったのですが、あまりにも変化、成長しない自分に「違うところで仕事した方が良いのかな」と思った頃に支店異動がありました。

今までは、中途採用で営業経験者、しかも部下が年上ということで、あまり触れられなかったロープレや同行などの指導だったのですが、異動してからすぅさんへの対応などがその上司は今までと違ってそのおかげでブレイクすることとなりました。

今までノリで営業をしていたのですが、体系的に戦略的に分かりやすく教えてくれたり、同行やロープレでいけてない所を指摘し改善できるまで付き合ってくれたりと夜遅くまで連日連夜続きました。

その上司は、女性で、すぅさんより年下でしかも後輩でした。正直、言葉遣いにイラッとしたり、分かってないのにはぐらかしていると誤解された態度を取られたりと何度も事務所内で衝突がありましたが、それでも面と向かって指導してくれたおかげで変わることができて本当に感謝です。

ここでも、大学時代のバイトで感じた【アメとムチ】を実感する1年でした。ブレイクしてから営業マンとしては無双状態で、個人成績はもちろん、支店の足りない数字も獲得してこれるほどの実績を積むことができて、異動して2年目の34歳の時に年間の営業マンMVPを取ることができました。

この経験は本当にすぅさんの中で貴重な経験になっています。

1社目のときにはガムシャラに営業をして責任者として任されて育成もガムシャラにしていたのですが、ここで人が成長するポイントや上司として在り方、関わり方を改めて自分事として体感することができて本当に良かったなと思いました。

仕事としては、そこからマネージャーに昇格し、プレイヤーからプレイングマネージャーに仕事内容が変わり、自分がやりたい育成という分野にまた再度することとなりました。

副業もスタート

その頃から元々起業したかったということもあり、色んな勉強やセミナーを受けに行くなかでそこで出会った人を通じて営業代行の副業をすることとなりました。これもいわば初体験ですね。インターネット集客のやり方を学ぶ機会にも恵まれたし、ネットから電話で営業してクローズまでするという仕事があることも知り、良い経験をさせてもらいました。

正直、仕事も副業も結構順調になってきて人生も楽しくなってきたなぁ~と思っていたら親父の痴呆症の介護問題が出てきました。

ライフチャート画像

38歳 親父の痴呆症の介護問題

ライフチャートを見てもらったら分かると思うのですが、完全に転落です。【マイナス100】です。世間でもある介護問題。ニュースやネットでも介護苦があるって知ってましたけど

  ニュースで知っている事実と現実は違っていました。

自分が身に染みてとなるとリアルさが全く違います。本当に違います。やっぱり実際にそうならないと分からない現実があるんだなと分かりました。

親父も70歳になり確かに良い年齢かもしれないですけど、今の70歳は若いし、八百屋もしていて頭も使っているから脳みそはまだ現役のはず。だけどそんな親父も痴呆症になるんです。原因は、ただ1つ。遺産問題です。祖母が残していた家の権利を巡り3兄弟で主張し合い。祖母の面倒を実家で見ていた父親からすると何も面倒見てない兄弟から遺産の一部をもらう筋はないと言いたかったんだと思うのですが、法律ではそういうのは通らずに家を売買した金額を分配する形となり、「なんでや、くやしい」と相当思い詰めていました。その横で母親も仕方ないよ。忘れよう、となだめていましたが、本人はいつまでもそれにそうとう頭を悩ませていました。そのストレスが親父の痴呆症を引き起こしたんだと思います。

時計が読み取れない、お金の計算できない、朝と夜の感覚がわからない、食べたことを覚えてない、感情のコントロールができないからキレる、大声をあらげる、モノに当たる、モノを投げる、など痴呆症によくある症状が日にちが経つことに出てきてます。

すぅさんが最初、その症状に出くわしたのが、ある日の夜、父親より「母親はどこや、呼んでくれ」と。その日は好きなアーティストのコンサートに行くということでまだ帰ってこないどころか、今から始まる時間帯、19時ぐらいでした。

「コンサートは昨日行ってるから今日じゃない、朝の配達準備ができてない、持っていく時間やのにどうすんねや、仕事がなくなってしまう」

と怒りながらぶつけてきました。

そうです。配達は朝の7時で問題ないんですが、今は夜の7時、時間の感覚が分かっていなかったんです。自分で配達の準備をすることができないから母親に頼るしかない、そして父親は携帯を持っていましたが、母親に携帯で連絡することができずただ持っているだけ。「かけてくれ!」とひたすら怒っていました。なんとか、なだめて落ち着いたと思っても10分いないには、さっきと同じデジャブ状態。

当時、仕事から戻って夜から副業していたすぅさんは、この対応で全くすることができませんでした。

症状が悪化したときには、目の前に母親がいるのに「〇〇子はどこにいるんだ」と母親に向かって旧姓の名前を聞いてきます。

「〇〇子は私です。」そう母親が言っても「おまえはちがう」と言い、「お前らでバカにしてるのか!」とひどい時にはまたキレ出します。

ナゼか母親には強く当たる父親、その場を離れると何をしでかすか分からないからすぅさんは母親の近くにいて、症状が軽くなるのを待ちました。

こんな日がずっと続いて、さすがのすぅさんのメンタルも削られていきました。今まで色んな自己啓発などメンタル強化の勉強もしてましたが、身内の衝撃的な現実は受け止めることができず内面はボロボロでした。

そんな日々の中で、すぅさんはMSP(マキシマムステートプログラム)に出会いました

ライフチャート画像

38歳 MSPとの出会い

そんな内面打ちひしぎられる中、20代前半の時に退行催眠を勉強していた先生のお知らせが目に入ってきました。【心と脳と身体を最高の状態にする】プログラムができました。今も進化しみんなと検証しています、と。

すぅさんは、元々、【人間の能力の可能性】にスゴく興味があり、自分にもそうですけど、人のお役に立ちたいって思っている中で、そういうことができたらおもしろいよなぁ~という気持ちで体験会に行きました。

初めて受けたとき、驚きました!受けた直後は、なーーんにも自分が変化した感覚は全くありません。だけど、事前にしたビフォーアフターをすると確かに変化しているんです。

視野が確かに広がってる、前よりも広く見えるようになってる!

あれ、体幹の軸が強くなってる。押されてもブレない自分がいる。

ん?マイナスな感情を持っても身体が弱くならない。

他にも色々あるんですが、無意識で変わっている事実を体感することとなりました。それまでにトレーナーの人たちが取っているyoutubeでの動画を見ても驚く内容ばかりで、何も知らずに動画を見たらうさんくさいかもしれないけど、自分が体感してしまったから見ててMSPの可能性が分かるんです。

そして実際にすぅさんも受けていく中で気付いたことがあったんです。

それは、

ストレスを受け止めれるようになった
悩みを引きずらなくなった
生きやすくなった

ということなんです。

実は、すぅさん、介護をしている中で、少し家を離れるときがあって、そんな時に母親から電話がかかってきました。

母親が泣いてるんです。「もう嫌や、お父さんと電話かわるね」って

すると親父も泣いてるんです。

わけわからんのや。こんな電話、ホンマはしたくないんや。こんな姿、見せたくないし、分かるやろ。いつもありがとうな。でも、自分でホンマなんでこんななったんやろって思ってるんや。ありがとう。お母さんに変わるわ

電話越しで両親ふたりとも泣いているんです。母親から話しを聞くと、また「〇〇子はどこや」と「お前はちがう」と大声で責め立てられて泣いてしまったと。どうしようもできず電話したらしい。

もぉ、すぅさんもその電話で大泣きしました。とにかくその時の現実が受け止められなくて泣くしかなかったです。電話して二人は一旦落ち着いたみたいだったのですが、すぅさんはその日はずっとひきずってしまい、その日の夜も一人で思い出して泣きましたね。どこにもぶつけれない感情、誰も悪くない事実、どうしようもない現実を受け止めれず泣きました。

そんな介護の現実を突きつけられていたすぅさんだったんですが、MSPを受けて気付いたのが、その現実を受け止めて前に進めるようになりました。辛いなと思うことは確かにあるのですが、今まではそれが身体の芯まで突き破り、何も考えられずに囚われてしまっていたのが、受け止めて横に置くことができるようになったんです。てか、できてる自分に気付いたんです。

今も介護問題は続いていますが、すぅさんはMSPのおかげで色んなストレスを受けて止めれるようになってからはスゴく落ち着いて状況を捉えられるようになりましたし、本当に生きやすくなりました。

すぅさんみたいに介護問題だけでなく、仕事のこと、育児のこと、家庭内問題のことなど色んなストレスに苦しんでいる人がいると思うし、そういう人にすぅさん同様に、そういうことがあったら受けて止めて、冷静に判断ができて自分らしく生きていける人が増えたらいいなぁと純粋に心から思えるようになりました。

そういう気持ちから、すぅさんは今度は自分がMSPを広めたいなと思うきもちになりました。

39歳~40歳  起業・結婚・出戻リーマン

当時付き合っていた今の奥さんですが、そんなすぅさんの状況も知ってましたし、結婚も意識していたのですが、この介護問題が今の生活スタイルだとなかなか上手くいかないから思い切って起業しようと思うって相談したときに「やりたいことしたらいいやん!」って応援してくれました。

すぅさんにとって本当に上手くいくか分からないし、そんな状態で結婚に踏み切るなんてという勇気が出なかったんですが、奥さんの後押しで起業しました。

2年ほど前からやっていた副業での営業代行で生活ぐらいはできるから、それをしながら新たにビジネスを構築したらいいわと思って、会社も辞めて起業したのですが、辞めて2ヶ月目に営業代行をしていた会社の業績が傾き、一気に仕事がなくなってしまいました。

充てにしていた収入の大黒柱が速攻なくなったんです

もう笑うしかないですよね^0^今までの自分だったらこの状況の悪夢に囚われてまたストレスにやられていたと思うのですが、ここでもMSPのおかげでフラットに受けて止めてとすることができたことが大きかったかなと思います。元の会社に仕事の話しをしに行ったり、新たにネットでのビジネスの手伝い先を見つけたり、リアルでの仕事を取りに行ったり、と色々してました。そんなことをしながら、横ではTwitterを始めてMSPを広めるぞーーって思って色んな人たちと出会うことができました。

起業自体は失敗でした。失敗というか、すでに結婚もしていたし、収入がヤバいのにこのままじゃアカンし、多角的に考えて、もう一度足場を固めるために起業撤退して出戻リーマンで再浮上のキッカケを作った方がいいなと決断しました。

でも、良かったなって思ってます。それは、色々と経験ができたからです。見てなかった世界を見ることができました。リアルでの出会いも広がりました。

そして何より両親との時間を多く持つことができました。

動機こそはズレていたかもしれませんが、かけがえのない両親と時間を持つことができて、何より介護で大変な母親のサポートをすることができたのが良かったです。現実を見ることが多かったから相談にも乗りやすいし、提案もしやすいし、この1年間は本当に良かったなって思います。


ライフチャート画像

40歳を迎えて

孔子の論語の中に

四十にして惑わず

という言葉があるように、四十歳になって、道理も明らかになり自分の生き方に迷いがなくなりましたね・・・

とハッキリと言えれば最高ですけど、すぅさんは、すぅさんと出会った人たちとは愛に満ち溢れた世界ができたらなぁーと考えています。

これからも色んな経験が間違いなくたくさんあると思うけど、その度に、どうやって受けて止めるか、どうやって楽しむかを考えながら、その先にある笑顔が溢れる世界ってどんなんだろうってワクワクしてます。

すぅさんは、過去に挫折と成功を経験して、色んなことを学んできました。そんな中、38歳で親父の痴呆症の介護問題とMSPの出逢いの両方を経験しました。

(MSPについては、こちらで配信してます。 https://lin.ee/dxf6WGa )

その体験から自分のミッションは

人生の学びの中でぞじぶんらしさを探求し、共に助け合い、共に高め合いながら、日々の感謝とありがとうを深め、自分らしくイキイキと過ごす

そのために

嬉しいこと、悲しいこと、悔しいこと、辛いこと、楽しいことなど全てを経験させてもらっていると思います。

すぅさんはそれでもやっぱり人と関わることが好きやし、共に高め合う為にも自分が本当に受けて良かったし、苦しんだストレスから救われたこのMSPをみんなに広めたい気持ちはやっぱり変わらないなって思いました。

かなり長くなりましたが、こんなすぅさんですが、よろしくお願いします。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?