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モレサンドニを覚えてますか?

ロマネ・コンティ、シャンベルタン、ミュジニィ…
グラン・クリュ(特級畑)を飲めるとなったらブルゴーニュ・ファンじゃなくても心がおどります。
しかし、同じグラン・クリュなのに、「クロ・デ・ランブレィ」が出てきたときにはなぜか少し残念な気がしてしまいます。


そこにはなにがあるんでしょうか。

ブルゴーニュのグラン・クリュ街道は、ワイン好きなら一度は踏破してみたい道。 
マルサネ村から南下し、ジュヴレの村をでてすぐのマジ・シャンベルタンの畑をを右に通り過ぎ、 その向こう側にふっくらと盛り上がるようなシャンベルタン・クロ・ド・ベーズとシャンベルタンをみあげるとき、その風景は言葉にならない感動を呼びおこします。 
そしてその感動は、その先の十字架がある、ロマネ・コンティの畑まで続きます。
   
ところが、いつのまにか通り過ぎている村があります。

モレ・サン・ドニ村 Morey Saint Denis。
人口は700人弱、南北にも1.2kmしかないちいさな村は、ジュヴレ・シャンベルタン村の特級畑に感動しているあいだにいつのまにか村の中心部に入り、高い壁にさえぎられて道からは見ることのできない特級畑「クロ・デ・ランブレ」と「クロ・ド・タール」には気づかないまま通り過ぎ、 村をでてあたり一面、黄金のぶどう畑が広がると、 そこはすでにシャンボール・ミュジニィ村。 
「ボンヌ・マール コント・ド・ヴォギュエ」の看板をみて、またテンションがあがっている頃には、すでにモレ・サン・ドニ村のことなんか忘れてしまっているのです。
モレ・サン・ドニ村といえば、特級畑が5つもあり、地理的にもすばらしいはずなのに。


ジュヴレ・シャンベルタンはナポレオンが愛したワイン「シャンベルタン」があることで有名で、村の外れには大きなホテルもあり、観光客もたくさんやってくる村。
そしてシャンボール・ミュジニィ村はブルゴーニュ・ファンがもっとも好きな村として有名です。
「シャンボール・ミュジニィ」という言葉の響きがうつくしく、この村の1級畑「レザムルーズ(恋人たち)」という、いかにもフランス人のセンスが詰まった名前がついていて、この畑で造られるワインは特級畑よりも高い価格で取引されたりもしています。


一方、モレ・サン・ドニの村の人たちは、ジュヴレ村がシャンベルタンをつけたことによって、ブランドイメージをあげ、成功していくのをずっとうらやましくおもっていました。

こうなるとモレ村の人たちも黙ってられません。
自分たちの村も名前を変えてブランド力をつけようと、村の有力者があつまって議会がひらかれます。
当時の名前は「モレ・アン・モンターニュ」村でした。
じゃあどうするのか、なにがいいのか、と、いろいろ議論が白熱し、長いじかんをかけて討論し、最終的には、モレ村にある特級畑「クロ・サン・ドニ」から名前をとって、「モレ・サン・ドニ」にしようと決定しました。
クロ(石垣)にかこまれたサン・ドニ(聖ドニ)という聖人の名前です。

いかにもフランス人がすきそうな名前かもしれません。
しかし、聖ドニはフランスの司教でパリにキリスト教を広めたものの、首を落とされて殉教した聖人。
聖人とはいえ、不吉な名前です。



ジュヴレが行った村名変更は、「ナポレオンが愛した」という、最高の評価と知名度を備えたシャンベルタンをつけることによって、その村全体が産出するワインにシャンベルタンの名前がつき、それが絶大なブランドイメージ、宣伝効果をもたらすということです。

しかしクロ・サン・ドニという、美味しくてキリスト教徒のなかでは有名かもしれませんが、他の宗教の人たち、もっというと世界的には無名の名前をつけたところで、はっきりいってなんの効果もありません。
いかにこの村の人たちがマーケティングのセンスがなかったかが、この話からわかります。



モレ・サン・ドニ村に5つの特急畑がありますが、今回はクロ・デ・ランブレィという特級畑の話をしましょう。
この畑の99%をドメーヌ・デ・ランブレィが所有してますので、モノポール(単独所有)といっても過言ではありません。
だって残り1%の所有者トプノー・メルムのクロ・デ・ランブレィはほとんど市場に出てきませんから。



このクロ・デ・ランブレィという畑は1365年のシトー会修道院の記録証書にもその名前が残るほどの歴史を持ちます。
しかし、この畑は相続により分割され、または売却され、いつの間にか74もの区画に分割されました。
分割されるということはそれだけ所有者がいるということです。

まじめにぶどうを栽培するところもあれば、なまけてほとんど手入れしない所有者もいます。
そのまま自家元詰のところもあれば、ぶどうごと大手のネゴシアンに売るところもでてきます。



1630年からドメーヌ・デ・ランブレィのオーナーのルイ・ジョリー氏により、この畑を買収し始め、1866年の時に、オーナーは変わっていましたが、買収はほぼ完了しました。
しかし、これだけ色々な生産者の手にわたっていれば、土の状態も、ぶどうの樹も、全てにおいて混沌とした状態です。

このころのクロ・デ・ランブレィはじっさい評価も低く、それでも場所は特級畑に囲まれた最高の立地のため、1935年のAOC制定の際にはなんとか一級畑として認定されました。

その後、また所有者が移ります。
このオーナーのもとでもクロ・デ・ランブレィの根本的な畑の改革に乗り出し、長い年月と資金を惜しみなく使い、1981年、ついに一級畑から特級畑に昇格を果たすのです。
これはAOC施行後はじめてのことで、ブルゴーニュ全体にその話はすぐに広まり、ほかの生産者にも希望を与えました。
これ以降、少しずつではありますが、クロ・デ・ランブレィのイメージは回復していきます。


そして1996年にドイツ の食品会社、フレウント・ファミリーがオーナーになりました。
醸造設備を一新し、若樹の区画を格下げするなど様々な改革を推し進めます。
クロ・デ・ランブレィの畑には平均樹齢30~60年のぶどうが植えられてます。
ぶどう栽培においては馬による耕作を実践し、土が柔らかく呼吸し、ぶどうは地中深くまで根を張りることができ、十分な養分をより吸収することができます。
最高の立地、昔ながらの栽培方法、樹齢の高いぶどうの樹、徹底した低収量、最新の醸造設備。
もちろんスタッフも最高の人材を集め、評価もどんどんあがりファンも増えてきました。

この頃のクロ・デ・ランブレィの味わいには驚かされます。
ブラックベリーとスパイスと肉の太い香りに、派手さはないものの重厚感がありつつ、質感にはやわらかさとなめらかさ。

当時の流行りだった味わいに近く、ロバート・パーカー好みの味わいで、2000年代は90点以上の高得点で世界から注目を浴びるようになりました。



しかし2010年、このときの当主ギュンター・フロイト氏が亡くなると、この土地はまた売りにだされます。

このときにある噂が流れました。それは中国の企業が買収に動いてる、と。
この頃、中国のフランス進出はものすごく、ボルドーもすでに何社か買われ、買われたシャトーは、ワインの値段が元の値の5倍ほどになり、それも中国のみで売り出されるという始末。このまま行くとついにブルゴーニュもか?と。



そのとき最終的に買収に成功したのはフランス・パリを本拠地とする大企業、LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)でした。

このときの買取価格が1億100万ユーロ(約143億1400万円)と報じられました。かなりの高値です。
当時のグランクリュのヘクタール当たりの価格は380万ユーロ。
もし平均価格で取引されたならば、クロ・デ・ランブレィは8.7haの広さなので、3300万ユーロとなり3倍以上の価格です。

この値段の上がり方はやはりどこかの海外の企業と競ったせいでは?
と囁かれ、あまりの高値にブルゴーニュの家族経営の造り手たちは不安になりました。
なぜなら、土地の価格があがれば、相続するときに相続税があがり、そうなると支払えない場合は代々守ってきた土地を売らなくてはいけないからです。




LVMHはルイ・ヴィトンをはじめ、ジバンシーやディオールなど名だたるブランドを傘下にいれ、ワイン業界の発展にも貢献しています。
モエ・エ・シャンドンをはじめ、シュヴァル・ブラン、イケムなど。
そしてクロ・デ・ランブレィを買収し、そこで長年支配人をつとめるティエリー・ブルアーンを含む、全ての従業員をそのまま雇い入れました。


LVMHは品質の向上に本気で取り組みます。
最新の技術を取り入れ、設備投資をし、優秀な人間を雇います。
そして高齢のティエリーの跡継ぎのために、ボルドー大学の後輩ジャック・ディヴォージュが支配人に就任します。
クロ・デ・ランブレィという畑は一度は忘れられた畑でした。

しかし、やはりそこになにかしらの魅力があり、その価値を信じていた人たちに愛され、かわいがられてきた畑です。
とはいえ、これだけの投資をする以上、どうしても値段がどんどん上がっていきます。
90年代の価格は1万円後半だったものがいつのまにか3万に、そして現在は4万を超えています。
いまはその価格にみあうだけのワインかは正直ぼくにはわかりません。

「クロ・デ・ランブレィ」
そのワインは、いつかブランドイメージと値段のバランスが合う日が来るのかもしれませんが、それはまだ先の話です。

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