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2024/06/30の日記 | 病月(やまいづき)よさようなら
6月が6月であるうちに書く日記!
結局2週間に1回くらいで書いてるな。
6月は体調良くなかったりネガ寄りのイベントが起きたりして過ぎ去って行った。病月(やまいづき)だった。トイレとシンクの排水が詰まったし、家族が3週間も入院したし、それを知らされていなかったし、上司とチームと自分のキャリアのヤバさを改めて突きつけられたし、同棲に不安がある話もしたし、味覚を失った(継続中)。
いいこともあった。初めて恋人とライブに行ったし、前髪の縮毛矯正したらヘアセットと汗かき困りごとが激減したし、初めてAudibleを利用したのにつられて本を読む習慣がひさしぶりに戻ったし、怪我をケアしてきれいな脚になってきたし、スキンケアを色々試してたら顔のくすみも飛んできたし、味覚失いの巧妙として数キロ痩せた。
けどやっぱ病んでた。周りも自分も仕事もプライベートも抽象も具体も病んでて、今日が末日になるのがうれしい。
この週末は帰省してさっき帰ってきたんだけど、大疲れだった。
夫婦だけどちがう惑星の生き物みたいに話す両親もそうだし、そこにいる自分は子供時代を思い出してみじめになったし、弱って年をとった親に、たったの1日も優しくできない自分もいやになる。優しくしあえよ。数十年連れ添っているのにどうして相手の立場にたてないんだよと思う気持ちもあるけど、この人の人生を考えれば当然という気もしてきて、そこに私の「社会的な要求におもねって嘘をつくのはできるだけやめる」という信念みたいなものがでてくるとそのどれもをすべて通すことなど不可能になる。詰む。あきらめないといけない部分もあるのにあきらめられない。希望に実際のところが追いつかなかったり折り合わなかったりして結局ぜんぶあきらめるしかないような気分になる。
でも、行かないよりマシだった。最近思うのは、自分以外の大事な人の要求・希望によりかかっていろんなことを決めようとする動きは、べつにそんなにありがたくないということだ。全部が全部じゃないけど。「いろんな事情はあったけど、こうしたかったからこうした」のほうが偉いし尊い。責任を引き受ける必要はもちろんある。けど、「自分がこのように考えて、あるいはそういう感情があって、だからこうしました」のほうが相手も助かるし自分も助かるし、自分が身につけたい方向性の人間的な魅力も上がる、気がする。否定する人や敵もつくるかもしれないけど、そういう動きのほうがいい。そうなりたい。そうする。
そう思って、「時期尚早かもしれないけど・・・」と思いながらも「いや今やったほうがいい」と行った帰省は、前述のとおり精神的にはつかれたけど充実したし、いまふうふう言って帰ってきてシャワー浴びて洗濯してクーラーのきいた冷たい部屋で文章を打つという主体性を私に返してくれた。
自分は「論理的に考えると、こう」という言葉に逃げ込みやすい思考回路をしてると思うけど、こっちのほうがずっと自分の一日、自分の動きに納得感があって、「良い」と思える。
正解をえらびたいわけじゃないけど、「本心」や「感情」や「好き嫌い」でものを決めていく性質がそんなにない自分について、「本心」や「感情」や「好き嫌い」でものを決めていきたいと思っている。思ってるんだな〜といま自分の心を観察してる。
レビュー動画も口コミも書評もレコメンドも見るな。ほしいかほしくないか、やりたいかやりたくないかで大方針は決めていけ
まだ書きたい気がするけど、「いま書き出すべきかも」じゃなくて「いまちょうどいい感じだわ、一旦」だから書くのやめよう。
読んだ本だけ書きたい。
2024年ベストかも。楽しかった。楽しい楽しい楽しい/読み終わった誰の評価も見ずにもう一度読みたい/考察やバベルの塔を読みたい/これを恋人に読んでもらいこの本の話をしたい/ずっとひとりでこの話のこと考えてたい
作中の脳内検閲人はちょうど自分が文章を書いたりなにか考えて決めるときの実況ログ(そんなものはない・空想)とちょっと似ていて親近感が湧いた。
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