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生み出したものが大事か大事じゃないか

風呂場で精神統一してたら、考えが研ぎ澄まされた。7月に慣れないことをいっぱいしたせいか、8月は完全にダウンしていた。いつになったら復活するのか、見通しが立たない。出口のないトンネルをひたすら走っているようだ。

絶望的な気持ちが続く。自分には夢もなければ、友達も多くない、恋人はいてもケンカが続くような日々を送る。あえて言うことではないのはわかっているけれども、お金もあるとは言えない。一つ気付いたのは何かを頑張っているようで、結局は消費活動をしていたのではないかということだ。

昔の自分には余裕がなかった。部屋のインテリアなんて考えたこともないし、ファッションにも無頓着だった。しかし、この頃は観葉植物をたくさん買ったり、洋服を買い揃えたりすることもできるようになった。だが、夏の晴れ間と違って、心は塞がるような気持ちになる日が多い。

今日も決して良い気分とは言えず、時間がただ高速道路を走っていくように過ぎ去っていく。同じ景色。それでも時間が解決してくれるはずだとぼんやりと信じながら、目の前のことに一つ一つ集中する。今日は一つ良いことがあった。ブログを書く気力が湧いた。

何も作る気になれず、料理も自分ではしない日々が続いている。思った。日常生活の中で、「作る」がなくなると徐々に虚しくなっていく。気力が湧かないと、作ることが難しくなり、日々に潤いがなくなる。心が枯れていく。

どうしたら立ち直れるのか。まずは自分の時間を作ることから始めたいと思った。これもある種の作るという行為でもある。自分の時間とは、好きなことを好きなようにやる時間というより、心の声を聞く時間と例えたほうが適切な気がする。

ノイズのない空間でぼーっとする。家族でさえも遠ざける時間を持つ。コミュニケーションが発生しない時間を作る。自分と向き合う。そうしているうちに舞っていたホコリが床に落ちていく。それを掃除する。自分にとってその掃除とはブログを書くことなのかもしれない。

気分が落ちていると人とつながりを持つことが難しくなってくる。誰とも関わりたくない、一人にしてほしい、そっとしておいてほしい。不思議とそういう拒絶のような感覚というのは無意識レベルで伝わるのか、連絡も減る。今はとにかく休むときだ。そう思っている。

だが、現状維持が意味するのは緩やかな死だ。少しでも生産することで心を回復させたい。人と関わりたくなくても、こうしてブログを書けば、それを読んでくれる人がきっと一人はいる。コミュニケーションが発生しなくても、誰かが自分を認知してくれていることがとても嬉しく感じる。

人はきっと人から理解されたいという気持ちが叶わないと生きる活力が失われていくのかもしれない。寂しいという気持ち。それが人に悩みを与える。共感されたい、誰かにわかってほしい。不登校の人、引きこもりの人が苛立ちやすいのも、理解されたいという気持ちが大きいからだと思う。

もし、今の世界では理解が得られなくても、自分が持つ悩みは決して無駄な悩みではない。いつか自分と同じような人の指針になるかもしれない。未来の誰かの悩みを今、自分が肩代わりしている。真剣に悩み、生きる。それ自体が遠くの誰かの、もしくはこれから生まれてくる人の役にきっと立つだろう。

消費活動はさせられている感覚があるが、生産活動はしている感覚がある。文章を一つ練り上げるのも、自分の命の風船に空気を入れ直すようなものなのかもしれない。

自分が生み出したものが巡り巡って誰かの役に立つなら、これ以上ない幸せだろうけれども、まずは自分にとって大事だと思えるものを作れたらいい。できたものが大事か大事じゃないか。大事じゃないならゴミになる。大事なら宝になる。しかも作っている最中にそれがゴミになるのか宝になるのかはわからない。結果は時間が教えてくれることになると思う。

久しぶりにブログを書いた。質はともかく書けたこと自体が嬉しい。心が死にかけると一生このままの自分が続くような気持ちになってしまう。書けた。その変化が嬉しい。振り返れば同じような日々の中にも変化は起きてきた。きっと明日は今日とは違う。八方塞がりだと思っていても、一筋の光が射すかもしれない。人間万事塞翁が馬。今日の悲しみに、明日の自分が救われるのかもしれない。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。