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葛藤しろ。人間であるために。

諸悪の根源は「寝不足」、万能薬は「睡眠」。あけましておめでたくない。肋間神経痛で体中が痛みに襲われている三森です。みもりじゃないよみつもりだよ。べいべ。たっぷり寝たら、ものの見事に回復するよね。にゃんちゅう枕詞だ。さっそく本題のない本題に入りましょう。

何を残したいか

自分がどう思うかがすべてだなと思います。最近はこうして記事を書くにも詩を書くにも、いかに自分が好きな形を残せるかどうかにすべてがかかっているなと。

文章のいいところは形になることだと思います。絵も音楽もそうですね。あんまりギチギチにやりすぎると力が入りすぎちゃう。後から読んだ時にしっくりこない。

肩の力を抜いて書けると、文章が雑でも、不思議と愛着が湧く。ここにいい意味での余裕があるというか。その余白を愛せるというか。

何を残したいか。これだけだなと感じています。もちろんほとんどがイメージ通りにはいかないけれど、それでも愛着の湧く形ができるとすごく嬉しくなります。

自分の場合、文章をどこで改行するかとか、実は内容よりもデザインのほうに意識が持っていかれます。一昨年の末くらいから服も好きになって、もしかしたら自分はデザインに興味があるのかもしれません。高見えさせたいのではなく、自分の体に合った服や、ドレスとカジュアルのバランスの最適解などを見つけると妙に楽しくて。

認知より愛してしろ

詩が好きなのには理由がいくつかあります。一つ目はいいねの数が気にならないこと。二つ目は認められなくてもいいこと。

両者はつながっています。多分、認知されることを目的にすると、結果がついてこない場合にショックを受けると思います。

詩はそもそも概念として認知されることには不向きです。詩ではお金は稼げません。その稼げなさがいいんです。

継続の問題もあります。結果ありきのDoの場合、目に見える結果が出ないと続けるのは難しいです。

ですが好きでやっている場合は違います。好きなので認められなくてもやる。好きだから続けられる。人間関係にも言えるかもしれないです。続けられるかどうかは愛してDoしているかどうかにかかっている。続けられるということは結果として愛しているのかもしれません。

共感の時代

今は共感の時代だなと思います。認知されることに全てのリソースが注がれるというか。でないと生きていけないという理由もありそうです。

でも、そればっかりが目的になるとしんどくなってくるのかなと。成果が出ない限り、人間として認められることもなくなるというか。

そういう意味では残酷だなと思います。成果を出せる人間でないと無価値に思わされる。でも、ほんとうに無価値なのでしょうか。我々は取り替え可能な歯車なのでしょうか。真に無価値だったら存在さえしていないように思います。

多分、虚しくなるということは人間センサーが働いていて、このままでは社会の部品になってしまうぞというサイレンが鳴っているということではないかと。

そういえば今日思いました。「あなたのことを好きになる自分に生まれてよかった」と。「好き」はじっくりコトコト煮詰まると、「好きになれた人生でよかった」と自分自身にさえ圧倒的な肯定感を与えてくれます。

人だけでなくモノもコトもそうだろうと思います。自分なら好きな音楽にふれると、「この作品に出会えた人生でよかった」と嬉しくなります。

自分に生まれてよかったというより、それに出会えた人生でよかったと思います。ほんとうにいい出会いは自分自身が消えるなと。対象の中で泳いでいられる。自由はこういうことかもと思います。詩作も楽しいです。ただただ自分の好きな世界観だけを文に落とし込めて。

作り手になる喜びは、つらいときでも自由の中に飛び込んでいけること。それにきっとみんなが制作に夢中になったら、祈りを捧げているのと同じだろうなと。集中しているから戦争も起きないだろうなと。

恋は盲目と言いますが、みんな揃って盲目になろうぜと。

盲目になろう

勢いで書き出したら、見事に着地点を見失いました。でも、文章を書くのはいいですね。考えを掘り下げることができる。多分、考える人が文章を書くのではなく、文章を書くから考える人になる。

でも、正直、恐れがあって、書いたものをボツにしてタンスにしまい込んでしまうこともあります。その恐れは、多分、他人の意見に対する恐れなのだと思います。でも、なんとなくですが、その恐れがあるからいいのだと思います。

恐れながらやること、自信がなくてもやること。それは取り替え可能なんかじゃない葛藤です。人間だからこそ、葛藤することができる。その葛藤にこそ、人間が人間である所以があるように思います。

それに書きながら思うのですが、自分に集中する時間が増えて、相対的にもやもやする時間も減ったように感じます。他人のしたこと、しなかったことではなく、自分が何をして、何をしなかったかのほうが重要であるということの意味がわかってきました。

作ることには相当の意味があるけれど、やっぱり怖い。それはツッコミが入るからだと思います。でも、何をやるにしても完璧になんてできない。必ずスキは生まれる。そこに入るツッコミは受け入れるしかない。

どんどんボケよう。どんどんすべろう。傷つくからやめるのではなく、傷つくからこそやる意味もあるよと言いたい。

生きることは傷つくこと。そして、その傷は生きた証。怖がりながらもやろう。作ろう。言い切ってしまおう。

これからも人間であるために。人の間で揺れよう。たとえ、自分のやることが社会の役に立たなくても。それを好きなら、どんどんやろう。

葛藤しながら、恐れながら。盲目になろう。最大の資源の無駄遣いは自分を卑下することだと思う。いくっきゃないっしょ。



おまけ:男と女の「かわいい」の違いについて

ここ数年、彼女から毎日のように「かわいい」と言われる。近頃なんて、「国宝だよ!」とか、「天然記念物だよ!」とかもっぱら褒められまくられている。急にのろけかよというツッコミが入りそうだ。

昔は、自分にも多少はかっこいいところがあるのではと鏡の前に立ってキリッと決め顔をしていた。が、あまりにもかわいいと言われすぎて、俺はもしかしたらかわいいのかもしれないと思うようになってきた。

さらには、「俺はかわいいんだ」と思い込むようになってしまってきている。この乙男心(?)をどうしてくれよう。

ごほん。本題に入る。なんとなく、男が言うかわいいと女性の言うかわいいには大きな違いがあると感じる。

男の「かわいい」は「見た目」であり、タイプ云々的な発言だと思う。蛇足だが、性的興奮を感じるのは男は視覚から、女性は文章からという噂を耳にした。正確なところはわからないが果たして。

話を戻そう。女性の「かわいい」は「愛嬌」、「動物的愛くるしさ」を指しているのではないかと思う。突然だが、ドラマ逃げ恥にこんなセリフが出てくる。

「『可愛い』は最強なんです。『かっこいい』の場合かっこ悪いところを見ると幻滅するかもしれない。でも『可愛い』の場合は何をしても可愛い、『可愛い』の前では服従、全面降伏なんです!」

いいこと言うよね。だから、ハッとした。おれ無敵じゃんって思った。母性本能くすぐってんじゃんって思った。ごほん。ごめんなさい。

「女は何にでも可愛いって言うよね」的な発言を男はするが(俺はしないよ)、もっと喜んでいいんだと思う。女性を服従、全面降伏させちゃっているらしいので。

こんがらがってきた。俺は何を言いたいのだ。セルフイメージって大事だよねって話だったっけ。そうだきっとそう。......このへんにしておこう。最後まで読んでいただきありがとうございました。








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