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ゲーム性のある生活。

「一番好きな野菜はなんですか」と聞かれたら、「新たまねぎです」と答えるかもしれないくらい、今、新たまねぎにハマっている。あの甘みが好き。「二番目に好きな野菜はなんですか」と聞かれたら、「春キャベツです」と答えるかもしれない。あの甘みが好き。甘い野菜が好きなのかもしれない。食の好き嫌いは、人間の好き嫌いと重なっている。私は、人に甘い人が好きなのかもしれない。ブログを書き出してから、体調に気を使うようになった。空腹時に甘い物をいきなり摂取すると、一気に頭がボワッとしてきてブログどころではなくなる。一日一回は何かしらの創作をしないと落ち着かなくなってきているので、菓子パンやスイーツなどの甘い物は避けるようになってきている。人工的な甘みより、自然の甘みが好きだ。

果物や野菜を食べていると、体にいいことをしている気分になる。今日は彼女が部屋に掃除機をかけていて、夏日ということもあり、全身汗だくになっていた。すごく健康的である。「いいダイエットになる」と言っていたので、ダイエットしたかったら掃除をしたらいいのではないかと思った。ただでさえコロちゃんが生き生きしているので運動不足になりがちである。たまのプチ遠出もいいだろうと近隣の駅へとぶらっと立ち寄るのだが、どこもかしこもショッピングモールだらけだ。便利は便利なのだが、せっかく移動してもショッピングモールにいると「どこも同じだ」という感覚が拭えない。「せっかく外出しているのにな」と思う。

美容院が大の苦手なので髪は弟に切ってもらっていたのだが、弟は自分の髪をセルフカットしている。しかも超上手い。人が上手くやっているところを見ると、自分にもできるのではないかと勇気をもらえる。ボサボサになっていた髪を自分で切ってみたら、案外、自分一人で後ろ髪だって切れるじゃんと思った。何事もやってみることである。巷ではあらゆることについて自己責任論が活発だ。集団生活に馴染めないのは努力が足りないだの甘えだの宣う。私は思う。四の五の言う前に、自分の髪くらい自分で切ってみせたらどうだと。話はそこからである。結局、自分はうまくやっているが人はそうではないという差異を利用したマウンティングではないかと思う。

先日、「誰かは自分にとって何かの先生である」と記事に書いた。逆も言える。自分は誰かにとって何かの先生である。まず他人であるという事実が尊いことなのだ。自分に対してどんなに愛してるよと唱えても、すぐに自分を大好きになることはできないが、他人に言われるとワケが違う。まじかってなる。ありがとうってなる。他人が他人であることは冷たいことなのではなく、自分にはできないことを伝えてくれる愛の伝道師なのである。村上春樹の小説に「完璧な絶望なんて存在しない」という有名なフレーズがあるが、完璧な人間だって存在しないのである。人との差異を自慢にすり替えてはいけないと思う。話は戻るが、髪にツヤを出したかったらトリートメントよりブラッシングだと思う。

生活のゲーム性は面白い。現実がどこまでも迫りくる恐怖だと感じると、恐れて動けなくなるが、アクションゲームやRPGのように失敗が何度でも許されるのであれば、もっと挑戦する人は増えるのではないだろうか。何事も、徐々に上手くなっていく過程が楽しい。人生はゲームだとは思わないが、生活はゲームだと感じる。革靴を買い、靴ずれを起こすのも体験として楽しいと思う。苦痛と快楽はそっくりだ。失敗しても次こそは上手くできると感じると何度もプレイしてしまうゲームのよう。コミュニケーションだって今はコミュ障かもしれないが、その内、慣れて上達するかもしれない。「楽しさ」には「今は上手くできないこと」が必要だ。「やり直すこと」が楽しい。なんでも容易くできるようになりたいとは思うが、そうなったら途端に物事がつまらなくなると思う。

何事も深刻にとらえないことだと思う。一人で生きていかなきゃと思うと焦りが生まれるけれど、人間は敵じゃない。往々にして味方である。ライオンじゃないんだぜ。人間なんだぜ。弱肉強食の世界だとは言うが、それだったらライオンに生まれてもよかった。でも人間に生まれた。いつだったか、「生きるということは傷つくことだ」と思ったことがある。個人的に好きな作品に『まほろ駅前多田便利軒』という三浦しをん原作の邦画があるのだが、瑛太演じる多田が「美しい肺を煙で汚してしまえ。それが生きるということだ」という発言をする。生きるとは汚れていくことだと思う。「穢れる」のではなく「汚れる」だ。子供が笑顔で泥まみれになるように。夏だ。どんどん汚れよう。汚くなったら、ダイエットがてら掃除でもすればいい。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。