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愛し愛された記憶は不滅。

昨夜、サッカー中継を観戦していたら、唐突に何の脈絡もなく一人の選手が倒れ、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。AEDが使用され、選手を取り囲むチームメイト達がボロボロと涙を流しており、これは只事ではないと感じた。有名な選手で、昔から知っていたし、かつ、まだ年齢も29歳で自分と同世代。その後、速報で一命を取り留めたとの情報が入り、ひとまず安心はしたが、この試合で選手生命が絶たれるのかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになった。サッカーという運動量が激しいスポーツなのもあるけれど、いつ死ぬか(死にそうになるか)は本当にわからないのだなと身につまされた。もし、誰もいない路地裏で倒れたら、多分、間に合わない。

「今に感謝を」と表現すると少し気恥ずかしさも感じるけれど、生きていること自体がとても不思議なことなのだと思う。明日死ぬかもしれない。リスクは数え切れない。鬱になるかもしれないし、ガンに罹患するかもしれない。事故に遭うかもしれない。死にはしなくても後遺症が残るかもしれない。今、この瞬間、五体満足で何不自由もなく生存していることが奇跡。自由なことばかりではないし、生きる苦しさだってある。でも、それは健康ありきだ。クリーン化が進む世の中にあって、「不健康に生きる自由もあるべき」だとは思うが、やはり、金を払ってでも病気に罹りたいとは思わない。

一日に使えるパワーは限られている。文章だって四時間も向き合うと限界が来る。だからといってやめてしまいたいとは思わない。休むと時間を無駄にしてしまったような気持ちになる。エネルギーは注ぎどころにある。今を丁重に扱い過ぎて、冒険(挑戦)を失うのは本末転倒。疫病によって失われているのは冒険心だ。同じことがずっと続くと思うと気が滅入る。感謝は前提で、感謝するとかしないとかではないと思う。今、生きている不思議を存分に楽しみたい。スティーブ・ジョブズは「私があの世に持っていける物は愛情にあふれた思い出だけだ」という言葉を生前、死ぬ前に残している。

無理が過ぎれば体調を崩す。富を追い求めても終わりがない。病床で仰向けになり、天井を見つめる自分がいる。最後の時、あの世に何を持っていけるのだろうか。持っていきたいだろうか。家族や友人との美しい思い出、若い頃からの夢を追いかけた記憶。まるでジャズのように躍動する走馬灯。人間には無理をする時期があると思う。それを肯定したいし、まったく無理なく生きるのもいい。ただ、生きること自体が老いることと同義だし、無理なく生きてもどこかで無理することにはなる。人生とは人間関係の中にある。死ぬ直前に泣いてくれる人は、自分が愛した人たちではないのだろうか。

愛し愛された記憶は不滅。あの世に富は持っていけないが、愛ならば持っていけるような、そんな気がしてならない。「愛は永遠」などと書くとこっ恥ずかしいが、言って恥ずかしい台詞ほど美しい。物質よりも豊かなもの、それは愛である。ピッチサイドで奥さんが取り乱していた。誰も彼の代わりにはなれない。命、人生の儚さは生きる意味を教えてくれる。君の代わりはどこにもいないということ。失ったら、二度と取り戻せないということ。残された者は深く悲しむだろう。悲しみの大きさは愛の大きさでもある。失うことを恐れ、人を愛さないのは冒険をしない精神と似ている。

金は失っても、また戻ってくるだろう。だが、君はもう戻らない。冒険とは愛であり、愛とは冒険である。君を愛する冒険である。生きることは愛することであり、愛することは生きることである。泣き叫ぶほどの愛は教えてくれている。その人がいた事実を。怖がることなく、人を愛せたなら。豊かな人生だ。人の、ある性質に対して、否定をするより肯定をしたい。心の奥深くで、人を愛せるようになれたらと心が叫んでいる。いや、もうすでに愛しているのだ。ただ、忘れてしまっただけ。愛を疑う必要はない。身近な人への愛を忘れたくない。認められることよりもずっと大切なことが目の前にはいつも転がっている。君の足元にはいつも宝石が転がっている。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。