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心が軽くなるほうへ

睡眠不足とは呪いである。中途半端に眠い状態で起きると世界に対する憎しみが沸き起こり、二度寝すると完璧にフラットな状態に持ち直す。世界が輝いて見える。

私事だが、ようやく穴あきセーターから卒業し晴れてユニクロのフリースを獲得した。これで寒さを凌げる。990円だった。それなりの品質のものがお安く買えてありがたいばかりである。

一方で弟は浴槽にお湯を溜め、必死に15年ものの掛け布団を足でフミフミと汗水たらしながら洗っている。兄弟揃ってハウスダストアレルギー持ちなのでホコリは命取りである。

水気を取ってもなお、びしょびしょに濡れたままの掛け布団を弟がベランダに運ぶ最中にポタポタと水滴が、床に散乱している私の衣服に飛び散った。

布団を新しく買うお金がない場合、やることは只一つ。再利用するための努力である。二人で濡れ雑巾のような重たい布団を持ち上げ、なんとか物干し竿に吊るした。

憎しみの重要性

好きな言葉の一つに、「人間は神様が作ったにしては不出来で、自然が作ったにしては出来すぎている」という誰の言葉だったかは忘れてしまったが、そういう言葉があって、時折思い出す。

神様から人間が生まれているとしたら、決して無駄なものは与えないのではないかと思う。戦争だってなければ平和の尊さは知ることができない。無駄でさえ無駄というあり方で意味を成している。

世の中にはなくてもよさそうなものは一杯あるが、憎しみもその一つではないだろうか。すべてを許せたら、どんなに楽かと思う。しかし、その許したいけれど許せないという過程自体が神様から与えられている段階という名の試練だとしたら合点がいく。

しょうがない。何もかもしょうがないのだ。しょうがないという諦めがあるからこそ、いい意味でリトライできる。何度でも勇気が芽生える。

神様という存在がそれを教えてくれる。また自然という脅威(であり同時に恵みでもある)も理不尽であるがゆえに意味や理由を吹き飛ばしてくれる。

何もかもに意味があり、何もかもに意味がない。憎しみにだって存在価値はあると思っている。愛と憎しみの反復によって人は輝く。愚者により賢者は創られる。

不完全な人間にできることがあるとすれば、なくてもよさそうなものに意味を与えたり、あってしかるべきだと思われていることに疑いを持ったりすることではないだろうか。

生きていく意味は、あるようでなく、ないようである。持つこと自体は自由だ。私は生きていきたいと思う。その志だけは持っている。生きているだけで頑張っていると思うし、下手に生きる理由を増やさなくてもいいと思っている。

今の社会は、価値観の違いがあるというより、価値観自体がない人が増えてきているように感じる。私的空間のすべてがまるで公的であるかのように語られている。

そっとしておくことの重要性が語られていない。良かれと思って、が一番危ない。下手な干渉も何発が打てば、人を殺す理由にだってなることがある。

生きていくことは回ること。停滞している時こそ今やっていることの逆を行く。愛と憎しみ、自由と縛り、神と自然、意味と無意味。人はその狭間に揺れるから、人の間と書いて人間と読むのだろう。

心が軽くなるほうへ

自分の書いたことにすぐに自己ツッコミを入れてしまうが、そもそもで真実は一つじゃないし一番良くないのは書けなくなることだ。仮に矛盾していたとしても自分の中に筋が通っていればOK。答えは後からついてくる。思ったことをそのまま書けばいい。

この人には何を言っても無駄だなぁと思うともう何も言いたくなくなる。特に一貫性のない人が苦手だ。昨日言ってたこととお前もう今日言ってること違うやんけと思ってしまってもう何も言いたくなくなる。気持ち暴力を受けてるような気分になる。

人は良くも悪くも優しいふりをする。その態度に少し傷つく。なんてのもちょっと被害者意識強いなあと自己ツッコミをしてしまうが。

人の役に立っているようで実は自分がいい思いをしたいだけのような自分の事だけしか見えてない未熟さというものがあり、意外とこれ年齢層高い人にも多いからびっくりする。

何と言ったらいいか優しさの範疇がでかい。さながら気持ちご飯多めでと言ったら、その気持ちがでかすぎててんこ盛りのおかわりごはんが返ってくるような、そんななんとも言えない味わいの気持ちになる。

食べ過ぎると眠くなるから、でもまだちょっと足りないから、その絶妙な塩梅というのは自分にしか分からないから、とても伝えにくいのだが、そこを絶妙にサービスしてくれるような人はいいなあ。

自分の事ばっかりではなくて相手のこともちゃんと見ている人。には、いとも容易く惚れてしまうね。多分これも俺は他人に期待をしすぎなのだろうと思う。こうやって何を言ったところで自分に対して無限ツッコミが行われるのだ。

故に誰に叩かれているわけでもないのだが無性に居心地が悪くなってくる。で、実際に本当に意図しない嫌味なツッコミが来るとじゃあもう何も言わないのがベストだなと全てを諦めてしまいそうになる。これは現代病なのだろうなあと思いますね。

頭の切れる人は日和見という言葉を使うが得てしてそういう人には実は一貫性があったりする。なぜなら日和見のバランスを知っているからだ。

誤解を恐れず言うと、ほとんどの人は有利な側についてああ言えばこう言う態度というばかりで関わっているとストレスになる。疲れる。だから関わりたくなくなる。

一億総ツッコミ社会だ。もう何を言ってもツッコまれる気しかしなくて、その思想がインストールされてしまって、もう自分でも自己ツッコミが止まらなくなっている。

ブレーキとアクセルを踏み間違えたならいいのだが、お前自らガンガンアクセル踏んでるんやんけみたいな現象に窮屈な思いをしてしまう。

ユーモアがありボケられる人がいない。悪気がなくストレートに人を傷つける人ばかりだ。悪気がないのが一番悪いと思ってしまう。

これを言ったらこうツッコまれるだろうという身構えが自分を最も小さくする。結局、無力感に苛まれ何もしたくなくなる。何も言いたくなくなる。そしてどんどんつまらない社会になっていく。

つまらないという側がつまらないみたいな言動をたまに耳にするんだけど本当にそうかな。確かにつまらなくなったこともあるんじゃないのかなと思います。

結局、昔から今まで力がある人だけが発言を許されているような気がする。でももう今は完全にSNSの時代だ。そのはずが何故かクラスタ分けという形で村社会がインターネット上にどんどん出没している。結局は現実でもオンラインでも仲間外れにされる。そういう寂しさがどこに行ってもある。

どうせクラスタの中に入るならもう一匹狼という一人クラスタでいいやと思う。そしたらもうクラスタじゃないんだけど。一人で自分の心の中で爆発を起こしまくってればいいやと思う。

俺が思うことを書くことはいつも閉鎖空間の中にあるような閉塞感を醸し出していて、まるで漫画喫茶の個室だ。

この2年間はコロナで閉塞感がある。多分、こんなことを言うと怒られるかもしれないが実は結構居心地が良かった。まだ終わっていないが。

特に世界にこういう方向性になってほしいということは全く思いつかない。それでも漠然といい出会いだったなぁとかいい体験だったなぁとかそういう日常にちょっとした喜びを見つけ出すことができる。

このちょっとした喜びこそが自分にとっての方向性なのだろうと思う。きっとそれは言い換えると心が軽くなるほうへということなのだろう。

意外にも心が軽くなる方法というのは楽な方向というばかりでもない。好きなことをやる中にも嫌いなことをやらなければいけないことがあるように楽な方向といってもつぶさに重いこともある。

重さに押し潰されないように、かつ、軽くなりすぎて地に足がつかなくなるわけでもなく、いい感じのバランス感覚を持って小さな喜びを大事に生きていけたらいいなと思う。

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米と味噌さえあれば生きていける

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。