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最大の資源は「自然」だよ。

連日ハード(個人差あり)に動いていたら、太ももの筋肉痛がずっと消えないままでいる。でも、その痛みが妙に嬉しく、最近は体を動かすのってやっぱりいいなと思っている。

昨日は菊名にある「ごちゃまぜの家(仮)」に行ってきた。新しい家の名前を考えている時期なので、今はまだ(仮)である。昼間に行われた会議では「はじまりの家」という候補も上がったけれど、それを聞いた瞬間に「終わりの家」のほうがいいのではと思ってしまった。

その話を彼女にしたら、マザー・テレサが設立した「死を待つ人々の家」ってあるよねという話になったので調べてみたら、「死にそうになっている人を看取るための施設」とWikipediaで出てきて、なるほどと思った。何か参考にできないかと考えているが、どうして「はじまり」とかそういう優しい感じより、「終わり」とか「死」とかそっちのほうに「いいね!」とか思ってしまうのだろう。「死の家」なんていいんじゃないか。......良くないか。

今回は家主こと各務春花さんにご招待いただき、お米やハムやレタスなど私には到底手の届きもしない高級食材たちを頂いてしまった挙げ句、Nさんにはお手製のサンドイッチまでごちそうになってしまい、ありがたいにありがたいを重ねたような一日になった。新しい入居者も次々と決まっているようで、春花さんの手腕に脱帽した。

春花さんはとてもいい人だ。語彙力ゼロ表現で申し訳ない。とても頑張っている。優しさ満点、それでいてしっかりと自立しているような凛とした女性に見えている。歳が下で、女性ということもあり、つい、先入観で「頑張りすぎているんじゃないか」と心配したりしてしまうが、本人のnoteを読む限りだと「頑張り過ぎたい」とのことだった。

強い。が、傲慢な意見になってしまわないか限りなく心配になりながら震えながら書くが、周囲の受け取り方も一歩間違えれば、「任せっきり状態」になる。あの家は「家」として機能を働かせている状態だ。別の言い方をすれば空間である。空き家ならばどこにでもある。それをどうしてあの家でなければならないのかという意味でのコンセプト的なものがなければ、「ここじゃなくてもいい」ことになる。

先代の坂爪さんには抜群の存在感があり、圧倒的な底力を感じる何かがある。悩み果てたり困り果てたりしているとき、どうしようもなくその力に頼りたくなる。その引力に寄せられる形で、自分も含め会いたいと思っている方々が会いに行ける場所でもあった。家×坂爪さんのパワーは凄い。

家主が変わることはイコール生まれ変わりを意味すると思う。春花さんの魅力だって当然凄まじい。昨日の場にもいらっしゃったCi(チャイ)こと監督こと五十嵐千尋さんも同じで、会うだけで、そこにいるだけで嬉しくなる人たちだ。

俺は普段から、どの場にいても「この場にいると空気を悪くしてしまう」という圧倒的最悪自意識過剰を爆発させ勝手に自滅していく愚か者なのだが、昨日は久しぶりに「俺がいてよかったのかも」と思えた一日でもあった。そう思えたことは貴重であり、それは春花さんや五十嵐さんの魅力なのであろう。

家だけであれば札幌でも愛媛でも沖縄でもいいが、そこに「あの人」がいるという感覚だけで、その土地に心なしか愛着というか親近感のようなものが湧くのと同じように、人の魅力は絶大な力がある。それこそ、居場所とは場所ではなく人間なのである。

個人的には、「あなたがいるから来たんです」というのが率直な気持ちだ。誰だっていいはずがない。

ところでこうペラペラと人の名前を勝手に出している上に、好き勝手意見を言っていて誰かに怒られないかとドキドキしているが、もしも怒られたら、ごめんなさいしよう。

最大の資源は「自然」だよ。

五十嵐さんとはたいへん仲良くさせてもらっているのだが、昨夜、「お前は役立たずだ」と実質的に言われてしまった。もちろんノリなのだが、同時に真実でもあると思う。

端を発したのは、「この家がなくなったらみっつはどう思う?」という質問に対して、「なくなるならそれは役割を終えたということでは」という比較的安易な返答に対してだった。

五十嵐さんは、「この家がなくなったら俺とハルピー(春花さん)はどうなっちゃうのさ!」と言う。気軽に遊べなくなるよという意味合いであると受け取った。

「書く」ことが果たしてアクションと呼べるのか(動作的には手はちゃんと動かしているのだが)わからないが、こうして書くだけであの家に対するアクションは行っていない。責任を引き受けていない。

考えれば考えるほど、重くなる。かといって「なるようになるさ」も何かが違うような感じがする。偶然タイミングが合って、みんなで会議をして、それで素晴らしい案が出るのであれば、それ以上のことはないのだが、多分、それは難しい。ミラクルに近いようにも感じる。そういう意味では、会議とはあくまでアイデア出しである。

頑張ること。つい頑張らなくてもいいよとか、頑張ってるねと言いたくなるのだが、一人で頑張らせているとも受け取れる。もちろん本人が望んでいることで最大限の尊重をしているが、多分、まだあそこの家は「遊ぶフェーズ」ではなく、「どうにかして回すフェーズ」だと思う。

コンセプト。この言葉は少し安易な気がして、あまり好きな表現ではないのだが、多分、そこにコンセプトがあるというより、春花さん自身がどこかコンセプトのような存在でもあるのだろうと思う。あまり無理して家のあり方を考えなくても、そこは自ずと家主カラーみたいなものが浸透していくような気もしている。

一番大切なのは「遊ぶこと」、「楽しむこと」だと思う。もちろん悩んだり苦しんだりする時期もあるけれど、深刻になることが目的ではない。ゴールは笑うことだ。心が微笑めばゴールだ。

あの家はどことなく子供がいる風景が似合う。生後6ヶ月の子と2歳の女の子がいて、あまりの可愛さと無邪気さにずっと見つめてしまっていた。なんだろうか。自然そのものを具現化している。海や山や空を眺めている気持ちになる。泣き声だって自然音のように耳の中を抜けていく。視聴率の多くを子供たちに持っていかれた。半沢直樹レベル。

「自然」はいい。好きだなと思える人たちに共通点を見出すとしたら、多分、「自然だから」と言えると思う。自然体とかではなく、存在が自然に感じる。天然でもなく、自然だ。どこか大地と強く根付いている。

自然はあって当然のものだ。あって当然のものがどんどん消えていっている。「ただ見ていられる」だけの存在が減っている。ただ見ているだけで嬉しくなるような人たちに触れると本当に浄化される。

ただ、自然はいとも簡単に破壊することもできる。森林だってすぐに伐採できる。心のどこかで「壊れないで、壊さないで」と願っている自分がいる。

春花さんのライブを見させてもらった。魂の震えと繊細さを感じられて、強いのにどこか脆いという迫力のある歌と踊りに「自然」を見た気がした。

自然は作らなくても最初からそこにあるものだ。「作り上げる」というより、「壊さないようにする」ほうがしっくりくる。もうそこにすでにあるものを壊さないようにする。俺はそれが愛のように感じる。子供が大きくなって就活で鬱病になったら嫌だ。ずっとそのきらびやかな目で微笑んでいてほしいと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。