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大丈夫。うまくやろうとしなくていいんだ。

何のために生きているのか、何が楽しくて生きているのか。街行く人たちにインタビューしたくなった夜。自分が可笑しいのかと疑うが、きっと違う。一歩間違えると、俺はどうしようもない野郎だと卑下してしまいそうになる。たしかにそうかもしれない。が、俺は違うと思う。それだけで充分ではないだろうか。自分のことを可笑しいと思い続けて、果たして前を向いて歩くことができるだろうか。違う。仮に誰に何と思われようが、俺は俺の道を歩く。それでいい。いや、それがいい。そうしなければ、簡単に心は折れ、何をするのも嫌になってしまう。

とはいえ、俺はよく落ち込む。なんでもないことに悩み、すぐに思い詰めた表情をしてしまう。しかし、そんな時によく思う。隣にいる人は全然、思い詰めていないのだ。隣の人は本当に気にしていないのだ。それはそうだろう。思い詰めているのは俺で、悩んでいるのも俺だ。でも、隣の人は平然としている。つまり、俺がどんなに落ち込んでいようと、極論、その人にとっては何ら関係ないのだ。もし、俺が共有財産を紛失でもしたら、その人は酷く悲しむだろうが、基本的に自分の悩みはあくまでも自分の悩みに過ぎず、隣の人を悲しませる事態にまではなっていないということ。

そういうことを頻繁に思うのだ。口にするほどのことでもないかもしれないが家族が、恋人が、普通に過ごしてくれている。それだけで心が救われる瞬間がある。繰り返すがこの悩みはあくまで自分の悩みであり、他人を傷つけるほどの、悲しませるほどの悩みではないのだ。そう考えるだけで自分の悩みが軽くなる。よくよく考えてみる。普段、過ごしていて誰が悩み事で責めてくるだろうか。もちろん自分の悩みが家族の悩みになっている人もいるとは思うけれども、基本的に自分の悩みは自分一人で抱えていることが多い。

例えば、この書き物だって何度もしょうもないしょうもないと思いながら書いている。でも、その度に自分を責めてどうする、それじゃ何も解決しないだろ、やれ、やれ、とも同時に強く思う。そして、どちらかといえば後者が勝ち、やるという行為に移せる。本当は怖い。自分の思った通りの意図で伝わらないどころが、特定の人に対する他意が含まれているのだと誤解されることもある。が、それは誤解した人が悪いと思わない。自分の書き方が誤解を招く恐れが強かったと考えれば納得もいく。けれども、それでも自分を責めない。しょうがないとそこは諦めるようにしている。誤解されても、自分の中ではそういう意図はなかったという確信があるからだ。

言葉というのは自分が操っているようで操られているのだなと思う。虚空の蝶という曲の歌詞に「魔法の言の葉で夢か現か  導く羽音に操られている」と書いた。当時、狙った書いた訳ではないのだが、今、改めて読むと「操られている」の部分に深く頷く。生まれてこの方、他者から与えられてきた言葉等々によって育ってきた訳で、すべての創造主ではないのだ。うまく書けなくて当たり前だし、何事もうまくできなくて当たり前だ。絵が描けないのではなくうまく描けないのだ。文章が書けないのではなくうまく書けないのだ。楽器が弾けないのではなくうまく弾けないのだ。「うまく」のハードルを下げれば描ける、書ける、弾ける。うまくやろうとしなくてもいいのだ。

「自分を大切に扱いすぎなのでは」という思いが頭をかすめる。たしかに自分の心は大切に扱うべきだと思う。下手するとすぐに壊れる。でも、自分という存在が爆発したがっているのに、それを一生懸命に押し殺してしまうのは自分に対して不誠実というか、せっかくのやりたいという機会をやる前から失ってしまう。もったいないという言葉はそれほど好きではないが、せっかくなら、うまくできなくてもいいから、一回でもいいから、やってみて、それから次もやるかどうかを決めればいいと思う。

相変わらず俺は悩み続けている。嫌われるのは怖くない。実際に嫌われたと思ったことはないから別に怖くない。しかし、興味を失われたり、何をやってもだめねと思われるのは結構怖い。もちろんそれでも寄り添ってくれる人はいる。そういう人たちのために、と言ったら嘘になる。あくまでも自分のためにやらない限り、誰のためにもならないと思うから。もっと言うと誰のためにならなくてもいい。自分のためにならなくてもいい。「俺はやった」という気持ちがあれば、俺は俺が生きているということを認めていける。

悩むことは悪ではない。悩みによって気付けることもある。俺はそういう気持ちを大切にしていきたい。誰が認めてくれるというのだ。自分以外に、誰が。俺はやった、だから今後もやっていける。それだけじゃだめなのだろうか。だめじゃない。それでいい。いや、それがいいんだ。その道がいいんだ。バカにされることがあっても、陰口を言われることがあっても、俺は俺に誠実に生きていく。常に自分との戦いだ。勝てなくてもいい。負けたくない。過去の自分に負けたくない。たまに落ちることがあっても、いい。ただ、今までやってきたことは無駄じゃない。無駄な時間なんてないのだ。

ならば、培ってきたものがある。どう思われるか。怖い。人は何を考えているかわからない。エスパーじゃない。見透かせない。あるのはあくまで自分の目だ。自分が自分を苦しめ続けるように、「もっともっともっとうまくやれ」と叫ぶ。そして、もう一人の自分が「いいんだ。もっと楽にしていいんだ、下手でもいいんだ」とうまくやろうとし過ぎる気持ちのハードルを下げてくれようとする。常に葛藤がある。でも、葛藤なくして充実した人生なんてないと思う。いいんだ、常に葛藤があって。大切なのは、葛藤に負けないこと、自分を卑下しないこと。常に、自分に誇りを持って行動することだ。

大丈夫。うまくやらなくていいんだ。うまくやろうとしなくていいんだ。うまくやろうとしてやる前から失敗を恐れること、恥をかくことを回避してしまうのが一番失敗だ。いいんだ、やって失敗して。恥をかいて。自分の小ささを露呈して。どんどん小さくなっていいんだ。小さいからこそ、身軽に動けるようになる。稚拙でもいい。出す。鼻で笑われてもいい。出す。出すんだよ。出すんだ。何度も打席に立つんだ。空振りするんだ。汗をかいて、泣いて。それでも振り続けるんだ。バットを。他人からどう思われようが、思いっきり空振りした記憶は永遠に不滅だ。自分の中に残り続ける。記憶に残った自分の一生懸命さ、いい意味でのバカさは絶対に資産になる。出せよ出せ。出して出してもっと恥をさらそう。恥をさらした数だけ強くなる。恥をかいて、周りから人がいなくなっても大丈夫。本当は誰も自分を見捨ててなんかいないんだ。

すべては自分の目だ。幻想ばかりを見ているんだ。強く生きよう。言葉でなく行動してみよう。まずはやってみよう。それじゃやっていることにならないと言われても、自分の中では死力を尽くそう。やってみなければできるかできないかもわからないし上達もしない。自分が満足いくところまでできたら、その時に一回休めばいい。休んでいる内にまた刺激が欲しくなり、またやりたいことをやろうと思えるパワーも湧いてくる。できないなら、今は無理をするときじゃない。できそうだなと思ったとき、その時にリラックスして臨めばいいのだ。陽は巡る。大丈夫。うまくやろうとしなくていいんだ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。