ドルトレヒト全国教会会議400年②
少し話がそれるが、ざっくりと、ドルトレヒト全国教会会議の流れを。
ドルトレヒトで開催された全国教会会議は、
1618年11月13日にドルトレヒト全国総会議はついに開催され、180回にわたる会議を重ねた後1619年5月29日にその幕を閉じたのである。
牧田吉和『ドルトレヒト信仰基準研究』32
とあるから、ざっくり半年(180日)の間に180回の会議ということなので、ほぼ毎日議論していたことになる。
とはいっても、最初から最後まで、穏健派(レモンストラント派=アルミニウス派)の神学について論じられていたわけではない(この事案以外にも、例えばオランダ語訳聖書についての議論などがなされた。)。
実際にレモンストラント派が会議場にいた時間というのは極めて短い。会議の序盤(11月16日)にアルミニウス主義者たちを「召喚」することが決定され、召喚状を受け取った穏健派は14日以内に「出頭」するように命じられる。
そして、シモン・エピスコピウス(上の写真・ドルトレヒト全国教会会議におけるレモンストラント派の代表格)たちが議場に姿を現したのは、12月6日であるとされている。
ちなみに、この時点で、穏健派の側に立つ有力な政治家たち(オルデンバルネフェルトやグロチウス)は逮捕されて、監禁状態にあった、ということを頭の片隅に置いておくと、穏健派が置かれている状況がよりよく伝わるだろう(オルデンバルネフェルトは会議の終盤に国家反逆罪で斬首されているのは前回の記事のとおりである。)。
穏健派は、12月6日から翌年(つまり1619年)1月14日まで会議にとどまったが、最後は(議長の言うことを聞かないので)追い出される形で議場を後にする。特に何か双方の歩み寄りがあったわけでもなく、お互いの意見が平行線をたどっただけの非常に不毛な期間であったといえるだろう。
そして、穏健派不在の議場で、穏健派(レモンストラント派)の文書が精査され、結果的に、カルヴァン派の正統の神学を示すために編まれた「ドルトレヒト信仰基準」が作成され、会議で承認されるということになるのである。そして、ベルギー信条、ハイデルベルグ教理問答と並んで、「ドルトレヒト信仰基準」は、改革派の大切な文書として受け継がれていくことになる。
さて、この「ドルトレヒト信仰基準」は穏健派の「誤った教え」に対して、正統な(改革派)信仰の基準として示されたものであるといえる。
しかし、キリスト教神学においては、ドルトレヒト信仰基準で「誤った教え」とされた穏健派の神学に近いものを、言うなれば「正統」、「信仰基準」としている流れがある。
筆者が属している教団の神学は「ウェスレアン・アルミニアン神学」である。それは直接的には、イギリスの神学者、ジョン・ウェスレーの神学の流れに立つものである。ウェスレーの神学は、特に「聖化/きよめ/Sanctification」の教理を強調する。
ウェスレーはアルミニウスの影響を受けた人物でもあった。(筆者の勉強不足で、確かにウェスレーがアルミニウスの著作を読んだ!と断言できる資料にはまだ当たれていないが)ウェスレー研究者である藤本満師の指摘によれば、ウェスレーはジョン・フレッチャーからアルミニウスの著作を紹介され、オランダにまで行って学びを深めたようである。
それに、ウェスレーは「アルミニウス主義者とは何か?(What is an Arminian?)」という記事も書いているし、刊行していた雑誌もArminian Magazineというタイトルが付けられていたから、この二つの事だけでも、ウェスレーがアルミニウスを意識していること、またそれなりの影響を受けていることを推論できる。
当然、ウェスレー神学は、アルミニウスー穏健派の流れを汲むものである。ドルトレヒト信仰基準によれば「誤った教え」を、ウェスレアン・アルミニアン神学も「信仰基準」としているということになる。人によってとらえ方は違うだろうが、これは
17世紀のプロテスタントの進展にあって、信仰基準による教派化を確定する動きと、それに反対する動きの二つが存在していた・・・
藤本満『歴史 わたしたちは今どこに立つのか』(日本キリスト教団出版局、2017)151
ということであり、ウェスレーの神学も、カルヴァン派の信仰基準による教派化を確定する動きではない、もう一つの流れに位置するものであるとまとめることができるであろう。
ドルトレヒト400年の年に、ウェスレー/アルミニウスの神学の流れに立つ者としてこのような記事を書いているのは、別に過去の遺恨を蒸し返して対立構造をあおろうというような意図があるわけではなく、教理史的な整理をする意味合いがある。藤本満師の著作の副題ではないが、この節目を契機として「わたしたちは今どこに立つのか」ということを確認する意味合いがある。ドルトレヒト全国教会会議も、カルヴァン派が立つところと、レモンストラント派の立つところが、真っ向からぶつかりあったプロテスタントの歴史の中で一つの大きな節目であった。
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