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天神さまと御霊信仰

菅原道真と梅の花

 梅を観に谷保天満宮まで足を運んだのは、まだ寒い2月の中旬のことだった。残念ながら、見頃はもう少し先のことだったけれど、それでも紅梅・白梅が咲き始めて地元の方々が甘酒を飲みながら花を愛でておられた。天満宮だから、祭神はもちろん菅原道真公であり、梅が植栽されているのは「東風吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」の歌にちなんでいるのだろう。

 絵馬もたくさん納められていて、多くは受験合格を祈願していたようだから、如何にも学問の神様らしいことだった。が、しかし、そもそも菅原道真公が天神さまとして祀られるようになったのは祟り神として恐れられたからだということも学校で教わったはずである。

 以下、菅公と略称で記すけれど、この方は845年生まれで903年に没した。もともと儒学と文書をもって朝廷に仕える家柄で、政治に直接関わるような上級貴族ではなかった。さりながら宇多天皇の信任を得て、やがて参議・右大臣にまで登用された。

 文官としての登用試験に若くして合格しているから、秀才の誉れ高く学問の神様と崇められるに相応しい経歴だった。現代に例えるならば、国家公務員の上級職試験に簡単に合格して、法務省か内閣法制局かに勤務。大学の教壇にも立って後進の育成にあたるような具合ではないだろうか。

 普通であれば、そのまま専門職の官吏として慎ましい一生を送って満足したところだと思う。しかし、本人の人格と才能が優れていた上に、たまたま宇多天皇の知遇を得たことがきっかけで朝廷で政治そのものに関わり右大臣にまで栄達した。当初は左大臣の藤原時平とともに宇多天皇を補弼していたのだが、宇多天皇が醍醐天皇に譲位したのち時平との間に争いがあったようである。

 藤原時平との間の確執については具体的な理由がよくわからない。宇多天皇は藤原氏との外戚関係がなく、藤原氏を抑えようとして菅公を重用したことが一因だろう。宇多天皇が時平の父である関白・藤原基経と「阿衡の紛議」と呼ばれるいざこざを起こしたことも知られている。

 ただ、時平は荘園整理令を含めて権門の私的な活動に一定の制約を課して、律令制を立て直そうという方向で政治を行っており、後の道長のように政治を藤原氏のために私物化しようとしていたわけではない。宇多天皇の御代には菅公と協力して政治を行っていたのである。

 それが宇多天皇が醍醐天皇に譲位した後に、菅公は天皇廃位の陰謀ありとして大宰府に事実上の流罪に処されたのであった。この辺りの事情は複雑で、一般には藤原時平の讒言とされているが菅公も皇室と姻戚関係を結んでいたのは事実である。東風吹かば匂いおこせよ梅の花、の歌は菅公が太宰府に赴く折に詠んだとされる。

天神さま

 菅公が太宰府に左遷=事実上の流罪になったのは901年のことで、亡くなったのは903年、今の数え方で58歳の年であった。ところが、909年のこと時平が39歳の若さで亡くなり、その妹が後宮で生んだ保明親王も夭逝してしまった。更に930年のこと内裏の清涼殿にて太政官の会議が行われていたところに落雷が襲い、数名の高官がその場で死亡。難を逃れた醍醐天皇も心労のためか三ヶ月後に崩御という事態になった。

 こうしたことから、菅公の祟りという噂が世に広まるところとなったのだが、北野天満宮が京都に創建されたきっかけは清涼殿への落雷から10年、菅公が没して約40年後の942年のこと。多治比文子という女性が菅公の霊の託宣を受けて小さな祠を建てたことが始まりとされる。その後、947年に多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが北野に神殿を建て、959年に右大臣・藤原師輔が邸宅を寄進して堂舎を改築したと伝えられる。

 実在した人物を祀る神社は、これが最初だという。 多治比文子が受けた託宣がどのような内容だったのかはわからないが、如何にも祟り神として祀られたように思われる。もともと天神という言葉は地祇という言葉と対になって、天におわす神々を指していたのだが、以前から北野の地では火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)という雷神が祀られていたところ、菅公の怨霊と結びつけて考えられるようになり、さらに菅公を神格化して「天満大自在天神」と呼ぶようになったとも伝えられる。また、仏教との習合から菅公が大自在天や大威徳明王などと関連付けられるようになった。

御霊信仰

 ところで怨霊または御霊への畏れは、もちろん菅原道真公に始まったことではない。歴史上の人物で言えば長屋王、早良親王(崇道天皇)の先例もある。長屋王は天武天皇の孫で729年没、早良親王は桓武天皇の異母弟で785年没、それぞれ藤原氏が絡んだ政争の結果、非業の死を遂げたとされる。

 長屋王の死後、疫病(天然痘と推定される)が流行し藤原氏の主要な人物が次々と亡くなった。続日本紀には宮中に落雷があったことも記録されている。早良親王が亡くなった後も桓武天皇の周囲では不幸が続いたのだが、おそらく当時は長屋王の祟りが活き活きと伝えられていたのだろう。桓武天皇は早良親王が恨みを晴らして、これ以上祟らないでほしいと願って、非業の死を遂げた弟に崇道天皇という諡号をおくったのだという。

 恨みをいだいて亡くなったに違いない故人がいて、その後に関係者が被った不幸が、その故人と結びつけて考えられた時に、「祟り」という観念が生まれたのだろう。これは、キリスト教世界では主流にならない考え方であろう。なぜならば不幸は神が与えた試練や罰として考えられるだろうし、神に造られた人間はその死後、最後の審判を待つことになるのだから。

 仏教本来の考え方では、身の回りの出来事はまずは自分自身の行状の結果だと考えて反省のよすがとするのだろう。しかし、日本で仏教が固有の信仰と習合した場合、しばしば固有信仰が仏教の外形を借りて、より強固に生き続けることが往々にしてある。塞の神が地蔵菩薩の外形を借りたり、先祖信仰が盂蘭盆会の外形を借りていることは容易に理解できる。

 同様にして、民族固有の怨霊に対する恐れが仏教の外形を借りた結果、「成仏する」とか「浮かばれる」とかいう言葉・観念が生まれたものと推測することができる。本来、仏というのは悟りを開いた徳の高い修行者のことである。「死ねば皆んな仏さま」というのは仏教本来の観念ではない。

 むしろ、「成仏してください」という言葉の裏を返すと人が恨みや怨念を残して亡くなった場合、現世にとどまって恨みを晴らそうとすることを恐れているのだから、これは怨霊・御霊信仰そのものだろう。交通事故や事件で人が亡くなった場合、その場所に献花がなされるのは仏教の供養の外形を借りているが荒御霊(アラミタマ)を和霊(ニギタマ)に転換する儀式であり、仏教の言葉で「成仏してください」と祈るのである。

学問の神様

 現代では受験シーズンが近くなると受験生が合格を祈願した絵馬を天神さまに納めることは季節の風物詩となっている。祟り神は強い力をもっていると考えられたが、祟り神を祀り上げることによって、その強い力を災厄ではなく守護や現世利益の方向に転換することができると考えるのも、日本固有の信仰である。

 菅公が優れた学者であったことから学問の神様としての側面が現世利益に期待されるところとなったわけだが、そこに至る迄には近世以降の子どもを中心とした天神講など、長い年月をかけた民俗の積み重ねがあったのだろう。

 自然の力は人間にとって災厄になったり、恵みになったりする両義的なものである。だから、人間を超えた怨霊の力も祀り上げることによって禍福を転換しうると考えられたのではなかろうか。また、恨みをかうことを避け、協力できることは協力しようとする日本人の性向も自然観に根ざした固有信仰にもとづくものなのではなかろうか。

(2022年5月)

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