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立川と普済寺〜武蔵の武士団

立川の普済寺

 普済寺(ふさいじ)というお寺が多摩モノレールの柴崎体育館駅の近くにある。臨済宗の由緒ある古刹で、室町時代では関東でも指折りの大寺だったと伝えられている。山門の入口には、人の背丈を超える大きな石塔があった。五輪塔かと思ったけれど、形が違うようだ。

 このお寺のホームページによると、お寺が創建されたのは「南北朝時代の文和2年(1353年)で、当時、立川一帯を領有していた立川宮内少輔宗恒が、鎌倉建長寺から物外可什禅師を招いて開山とし、その居城の一隅に一族の菩提寺として、一宇を建立したことにはじまります」とされている。

 今でも多摩一円に18の末寺を有する臨済宗建長寺派の寺ということだが、往時の寺の大きさと賑わいぶりは今とは比較にならないほどだったろう。実際のところ、明治になって鉄道が敷かれて現在のJR中央線の立川駅が開設される前は、立川一帯でいちばん賑わっていたのは、この普済寺近辺だったという。

 寺内には国宝の六面石幢(ろくめんせきとう)や、立川市指定有形文化財の釈迦牟尼像、板碑群があるが残念なことに、重要文化財の開山物外可什禅師坐像、本尊聖観世音菩薩像は平成7年の放火によって失われてしまった。

 その後、寺の建造物は再建されたのだが由緒ある古刹にしては新しい建築に見えるのは、そうした事情があるのだった。この寺は後述するように立川氏が滅んだ際にも、一時、焼失したのだが平成の安寧な世の中で再び人災に遭ったことは残念である。

 ⇒普済寺のホームページ

立川氏について

 さて、建長寺から物外和尚を請来して、一族の菩提寺として、この寺院を創建した立川宮内少輔宗恒とは、どのような人物だったのだろうか。残念ながら、立川氏について書き残された記録は少なく詳しいことはわかっていない。

 ただ、中世のこの地に立河を名乗る一族があり、武蔵七党の武士として鎌倉幕府に仕えていたことは「吾妻鏡」に記録されている。おそらく吾妻鏡の立河氏は、普済寺を建立した立川氏と同じ一族であろうと推定されているのである。

 武蔵七党と云われる一群の武士団に「西党」という武士団があって日奉(ひまつり)氏を名乗っていた。その子孫が立川に土着して立川氏を名乗るようになったのだが、西党は狛江市から多摩、八王子、日野、立川に至る国府(府中市)の西側一帯を領有していた。

 その一族は立川氏のほかに、西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・川口・由木・西宮・由井・中野・田村・狛江・信乃・高橋・清垣・平目・田口・二宮と合わせて20の氏に分かれて活動していた。

 立川氏は武蔵七党の西党の祖である日奉宗頼の孫で、由井氏を名乗った宗弘の曾孫立川二郎宗恒、立川三郎宗重の兄弟から始まるとも云われる。宗恒は普済寺を創建したその人だが、普済寺の近くに館があったとされ、寺内には「立川氏館跡」とされる史跡が東京都の史跡として指定されている。

 武蔵七党の武士団の中でも立川氏は長く生き延びた一族らしいが、世の中の有為転変の習わしで1430年代ころには衰退していった。その後、小田原の北条氏が関東に覇権を及ぼすと、これに仕えて一時は勢力を盛り返した。しかし、1590年に豊臣秀吉が北条氏を討伐した時に八王子城が落城し、立川氏も取り潰されて滅亡した。ただし、その一族には江戸時代に水戸藩に仕えた者もあったという。

武蔵七党の興亡

 有為転変は世の習いというけれど、平安時代後期から鎌倉時代初期の地方の豪族は血縁にもとづく武士団を形成していたのが、時代を経るとともに分解していった。理由は複数あるだろうが、先祖を共有する一族とは言え、時代を下ると血縁意識は薄れてくる。また、領地が増えなければ子孫に分割相続を続けることは難しく、長子だけに相続させるようになり、庶子は独立していく。そして南北朝時代の混乱は一族の結束を分裂させる方向に働くとともに、戦乱そのものによって没落していった武士も多かった。

 室町時代のそうした混乱の中でも、地方では国人と呼ばれる土着の新興勢力が生まれた。国人らは、一つには守護に対抗するため、もう一つには農民に対抗するために、一揆(いっき)という同盟関係をつくった。そうして、武士団に代わって有力な在地勢力として成長していったのだった。

 立川氏が属した西党を含む武蔵七党も、ある時代に勢力を伸ばし、やがて没落していった武士団だが、彼らが古代の律令国家の辺境から、どのように現れて力を蓄えていったのかを知ることも歴史の面白さである。

 西党だけでも前述したように20の家に分かれていたのだが、武蔵七党は、横山・猪俣・野与・村山・西・児玉・丹の七党を指す。彼らの祖先たちは、ほぼ国司として都から赴任してきた者たちだった。そして、彼らは禁じられていたにも関わらず、在任中から墾田開発を行い、離任してからも開発した私営田を経営し続けることによって地方豪族として勢力をもつようになったのである。

 彼らが武装して武士となっていったのは、律令国家が退廃して治安状況が悪化したためであった。武蔵国では、9世紀の後半にもなると各郡に検非違使が設置されるようになった(検非違使は都にだけ置かれたものではなかった!)。検非違使や押領使など警察権を管掌する国司や、その子孫たちが土着して武装したのは一つの流れであった。

 もう一つの契機は武蔵国が信濃・甲斐・上野の諸国と同様に牧場(まきば)を有する地帯だったことである。馬を殖やし育てる牧(まき)を管理する別当という役職も律令国家によって任命されたものだったが、牧の経営を契機として家子・郎等を編成した武士団の形成が進むとともに、騎馬戦を得意とする戦力となっていった。

新たな時代の芽は足元に

 こうして見ると、古代の律令国家または王朝国家から中世の封建秩序への移行というのは連続している面が多い。つまり、国司や牧の別当という律令に基づいた職掌の権力をテコにして、適法だが律令の枠からはみ出た在地の武士という勢力が生まれ育っていったのだった。

 これは源頼朝が朝廷に設置と任命の権限を認めさせた守護や地頭という職掌が、やはり律令(王朝)国家に淵源していた【注】のと同様である。むろん、一言で律令国家といっても、後々の荘園公領制の時代になると、よほど封建制に近い様相も呈しているのではあるが。

 したがって、新たな変化の芽は未来のある日に突然現れるものではなくて、日々の代わらないように見える日常に潜んでいるものなのかも知れない。ドラッカーもそのようなことを著書で述べていた。それを見抜く、あるいは見分けることは凡人には難しいことではあるけれど、そのように心がけていきたいものである。

【注】守護は平安末期の保元・平治の乱の後で、国司がそれぞれの判断で現地の有力武士に一定の権限を与えて国内での武士の動員と統率を行わせたことに由来する。また、地頭は平安時代に荘園領主が土地管理のために現地に置いた荘官に由来する。頼朝は治承・寿永の乱(源平合戦)を契機に、守護を武士の統率に、地頭を占領地行政と恩賞に利用した。

参考図書
武蔵野郷土史刊行会「多摩の歴史4」昭和50年、㈱明文社
・福島正義「武蔵武士ーそのロマンと栄光ー」平成2年、㈱さきたま出版会
・川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究」平成22年、講談社学術文庫

(2022年5月)

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