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映画「東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」を見た

先日、KADOKAWAの玉置さんにお誘いいただき、上智大学にて1964年の第1回東京パラリンピックを記録したドキュメンタリー映画の上映会に参加しました。

東京パラリンピックには公式の記録映画はなく、さまざまな組織が作った6本の映像があるという記録が残されているもののほとんどが見つかっていないそうです。そして今回、半世紀以上ぶりにKADOKAWAで発見された貴重な映像が公開されたのでした。以下はその感想として書いたものです。

1964年の東京オリンピックの後にパラリンピックが開催されたことは「豆知識」として知っていました。しかし、具体的に何がどのように開催されたのかということについて、私は全くといっていいほど何も知りませんでした。映画「東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」の上映が始まってすぐに、そのことに気づきました。今日はKADOKAWAの玉置さんにお誘いいただき、上智大学にて1964年の第1回東京パラリンピックを記録したドキュメンタリー映画の上映会に参加。

そして映画を見ている間は、55年も昔の(といっても私が生まれるほんの十数年前の)日本社会における障害者をとりまく環境と、2度目のパラリンピックが開催されようとしている今の状況とで何が同じで何が違うのか、ということがずっと気になっていました。

まず気づいたのは、第1回東京パラリンピックの開会式会場が国立競技場ではなく代々木の織田フィールドであったということです。近代的で大規模な国立競技場に比べてトラックのレーンの数も客席の数も少ない場所で、最初のパラリンピックは開催されたのでした。資金難を補うために有志が歌声喫茶で募金活動をするほど予算規模が小さく、参加選手の数もオリンピックに比べてとても少ない、ということもあるのでしょう。現在、パラリンピックの「パラ」はパラレル(=並列・平行)を意味していますが、当時の「パラ」は対麻痺(ついまひ)を意味していました。つまり、オリンピックと並び立つイベントではなかったようです。

また、1964年のパラリンピックの参加選手として映像に出てくるのは全員、下半身に障害を抱える車椅子に乗った人々でした。もともとパラリンピックの母体となった国際ストーク・マンデビル大会とは車椅子の方々のスポーツ大会であり、この東京大会の第二部から、すべての障害をもつ人々が対象の大会となったのだそうです。2020年の東京パラリンピックにももちろん、さまざまな部位の障害を持つ選手や、脳性麻痺、視覚障害、知的障害などさまざまな障害をもつ選手が参加します。おそらくこの半世紀ほどの間に、さまざまな障害を持ちながらスポーツに挑戦する人が増え、新たな種目やカテゴリーをパラリンピックに加えるよう努力した人々がいるのでしょう。そんなことに思いを馳せました。

では来年開催される東京パラリンピックを、私たちはどのように迎えるのでしょうか。私は、さまざまな背景を持ち、さまざまな種目で全力を尽くす選手たちの姿に、力いっぱいの声援を送りたいと思います。もちろん、オリンピックと同じように。

1964年の東京パラリンピックには公式の記録映画はなく、この映画「東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」は、有志が資金をかき集めて撮ったという作品でした。そのおかげで私たちは今回、大会の運営に尽力した人々や、障害者スポーツが珍しかった時代の社会の様子を知ることができました。こんどのパラリンピックは、(もちろん公式記録映像は制作されるでしょうけれども)誰もが気軽に映像を作り、世界中に向けて発信できる時代に行われます。ぜひ、選手や彼らを支える人々の様子、応援する私たちの様子などがさまざまな形で記録・公開され、2回のパラリンピックの間に私たちがどう変わったのか、変わらなかったのか、ということを次の世代が考える素材となっていくことを期待したいです。

庄司昌彦(武蔵大学社会学部教授)

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