2018年9月30日 / イエス・キリストと人間を信じる

大げさなタイトルですが、別に私はクリスチャンではありません。念のため。

ブレイディみかこによる「花の命はノー・フューチャー: DELUXE EDITION」(ちくま文庫)の感想をちょっと。

この本に、以下のような話があります。著者と友人が、その友人宅で酒を飲んでいるときのことです。二人とも、それぞれ鬱々とするような状況だったのです。

「あああ。アタシの人生の夜は、いつか明けることがあるのかしら」
と友人が漏らした。
「でもさあ、どうしてそんな真っ暗な人生なのに、鬱にもならないで、そん
な風に健やかでいられるの?」
冷えてきた胴体にコートを巻き付けながらわたしがそう訊くと、友人が答
えた。
「うちの一番上の兄貴がよく言ってたんだけども。ジーザスが十字架にかかっている本当の理由を知ってる?」
「本当の理由?」
「そう。知ってる?」
「知らない。わたし酔ってるし頭も回らない」
「何も期待するな、って言うためだって」
「へ?」
「世の中なんて不条理で筋の通らないことばかりなんだから、何も期待すん
なよ。俺を見てみろ。俺なんか、そのおかげで殺されちまったんだから。って言うためらしいのよね、どうも」
「ほー、ノー・フューチャーだね、それもまた」
「あまり他人や世間に期待し過ぎると、世の中は殺人者や犯罪者ばかりになっちゃうから、そもそもこの世は不条理でクソみたいなものなんだって人間に諦めさせるために、ジーザスはいつも十字架上で死にかけているんだって。この説は、結構信憑性あると思うのよね」
彼女はそう言ってから、くいっとストレートのジンを呷って横になった。

こういうような一種の諦念のような考え方は、私にはむしろ仏教を連想させます。

いずれにせよ、こういった考え方は、キリスト教の正統的な理解ではなく、クリスチャンの方に話したら、目をむかれるかもしれません。

それでも私はこういう考えや人々に共感します。何か、尊いような思いすら感じます。そして、そういう人たちをイエスも見守っているような気がするのです。


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