怒りの味噌煮込みうどん~関東風編~

怒りの感情が、何も生み出さないことを僕は知っている。それは仏教の教えでもあるし、キリスト教の福音書にも、たぶんコーランにも書いてある。それはこの世の真理なのだろう。

自分のからだに火をつけたら、触れるものすべてに火をつけて破壊することができます。でも、その前に何が起きますか? まず自分が燃えているのです。このことからわかるように、怒りには何かを破壊する力がありますが、何よりも先に破壊されてしまうのは自分なのです。マッチの場合も同じでしょう。「ゴミを燃やそう」と思って、マッチで火をつけると、先に燃えてしまうのはマッチです。「マッチは大事なものだから、燃やしたくない。でも、ゴミは燃えてほしい」という願いは絶対に叶わないのです。

怒らないこと アルボムッレ・スマナサーラ

これは本当に示唆的な文章だ。怒りの炎が燃え上がった時、何かに、誰かに怒って破壊しているつもりが、実は自分自身が燃え上がってしまっている。誰も、自分を傷つけずに誰かを傷つけることはできない。誰かへの怒りはそのまま自分自身への怒りになる。

そんなことは頭ではわかっているが、明日も仕事だし、蕎麦でも食べて締めましょうかと言って入った蕎麦屋の、期間限定メニューと強調されていた味噌煮込みうどんに、カニが入っていた時、僕は怒りの炎が自分の中であっという間に燃え広がるのを感じた。味噌煮込みうどんにカニだって? しかも身がほじくれないほど細い足で、まるで出汁を取るために入れてあるんですとでもいうような、言い訳めいた顔のカニ野郎。
僕は安易に味噌煮込みうどんを頼んでしまったことを後悔した。関東で久しぶりに味噌煮込みうどんをみかけたということもあり、本当は鴨南蛮蕎麦が食べたかったのに、勢いに任せて味噌煮込みうどんを注文してしまった。

誓って言うが名古屋で味噌煮込みうどんを食べたなら、絶対にカニなど入っていない。百歩譲ってもそれは別皿で、どんな悲しい運命か、味噌煮込みうどんと一緒にカニを食べたくなってしまった、哀れな観光客向けの、店としても本意ではない一品メニューでしかない。

そして僕はカニが入っていることだけに怒っているわけではなかった。味も正直微妙だったのだ。関東人に「おすすめの名古屋飯は?」と聞かれたときに、「味噌煮込みうどん」と答えたときの、あのいつもの微妙な表情。その理由が今ではよくわかる。君たちは毎年こんな味噌煮込みうどんを食べていたのだね。味噌も八丁味噌ではない甘さすら感じられる薄味で、カニ野郎が入っているからかどこか水っぽくて、うどんも細く、なぜかどっさり山菜が入っている、期間限定メニュー。決して店の定番メニューには載ることがない、季節感を出すための冷やかしメニュー。書いていて思い出したがカキも入っていた。下味のついていないただデカいだけのカキ。入れときゃいいってもんじゃないだろうよ。味噌煮込みうどんに入れて良いのは、ネギとかしわと卵。これで十分。気分によっては、かまぼことかシイタケ、海老天を入れてもいいが、カキ野郎もカニ野郎もぜひそのまま召し上がってください。そもそも味噌じゃなくて醤油で食った方がうまいね。

しかし、去年生まれた娘を見ていると、怒りの感情なくして人間は生きてはいけないのだと感じる。「腹が減った飯を食わせろ」「おしっこが出たおむつを変えろ」「鼻が詰まったなんとかしろ」「眠くなった何とかしろ」「なんかつまらないから抱っこしろ」娘は自分の意思を怒りの感情に乗せて力いっぱい泣くことでしか主張できない。

怒りの感情は何も生み出さない。しかし怒りがなくては人は生きていけない。怒りの感情は必要だから、生まれながらに人間に実装されている。それを超越せよと言っているんだから仏教はほんと無慈悲だ。そんなんできるわけないよという。だからそういう仏陀自身の教えは生活を送る上での指針、何かあった時にやっぱそうだよなあと立ち返る指標みたいな使い方をして、実際に自分が成仏するときには、どんな衆生も慈悲の力で導いてくれる阿弥陀仏のお力にあやかろうというわけです。親鸞さんありがとう。悪人正機なんてどうして思いついたんすかね。この考え方が一体全体幾千万の衆生の心を軽くしてきたかと思うと、人類の偉大な発明のトップ5には入ると思う。

まあなんていうかまとめると、たまたま口に合わなかっただけで、そもそも蕎麦屋でうどんを頼んだ僕が悪いです。また近くで飲む機会があれば今度はせいろ蕎麦をいただきます、という話です。

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