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お坊さん需要が減ったのは・・・

 お葬式でお坊さんを呼ぶことが少なくなってきているのは、薄々感じていました。

昔と比べると、お寺と庶民とのつながりが無くなってきていることが大きいのだろうと思います。
だから、お坊さんの呼び方もわからないし、お布施の相場もわからない。
そのうえ、一億下流時代に突入し、貧乏な日本人が増えたことが原因かな、とも。

記事では、僧侶の聖者性の欠落を述べておられますが・・・
そんなもの元々、日本仏教界では希薄なのです。

歴史書を紐解いてみれば分かりますが、
初期段階は国家公務員的な僧侶です。
国家安寧という利益のためです。
その後、門戸は開かれていきましたが、高級貴族の末っ子たちが家督を継げない分、仏教界で地位を得る方向になっていきました。

鴨川の水、サイコロの目、叡山の法師

は、言うことを聞かせられない、と国の最高権力者に言わしめるほど、中世仏教界は日本国内で多大な権勢を振るいました。
織田信長の登場、徳川家康の江戸幕府、明治維新以降の廃仏毀釈により、仏教は衰退していくことになりましたが・・・

その間、高僧は何人も登場はしておりますが、基本的に日本仏教は世俗仏教です。
特に、親鸞聖人の妻帯、子供による世襲の一般化は決定的で、他国仏教ではありえない世俗仏教になりました。

それはそれで、一つの方向性だろうと思います。
とはいえ、申し訳ないですが、欲望を断ち切るという仏教本来の姿を具現化出来ているお坊さんは少数派だと感じています。

歴史上の流れもありますし、現代日本において聖者崇拝が復活することの可能性は低いと思います。
それに、葬式仏教は本来、世俗仏教の代表格であって、本来の仏教の姿ではありません。

聖者崇拝の場合、お布施はしますが、葬式はしません。

いずれにせよ、そこまで厳しい修行をするお坊さんは少数です。
その一方、戒名でとんでもない高額を請求したり、お布施も相当な額を要求し墓所の契約もミラクルな額のお寺さんやお坊さんが、わんさといてます。

それに加え、就職氷河期以降、低所得層が増えた我々世代以降になると・・・
とてもじゃないですが、世俗仏教を食わしていくだけの経済的ゆとりはないですよね。
そう考えると、檀家制度で成り立っていたスタイルは崩壊していくように思われてなりません。

むしろ私は、僧侶はサロン化していくと考えています。

人はみな多くの悩みを抱えて生きています。
そういった人たちの心のよりどころ相談に来れる場所、そういう場があれば、自然と人は集まってくるのではないでしょうか?

私は僧侶でもなく、直近の家系からも僧侶が出たという話は無いですが、新しい僧侶的な活動(お悩み相談サロン的な活動)はしてみたいなあと思ったことはあります。
※)今でも会社を引き継いでくれる人がいれば譲り渡し、そういう生活をしたいなあ・・・と夢想することはあります。

猫が好きですし、保護猫カフェ的な感じで、本棚に本をたくさん置いて、お茶屋さんといった感じでしょうか。
普通に喫茶店として、おしゃべりの場に使ってもらう。
猫とも遊んでもらい、相性の良い保護猫は引き取れるようにする。
んでもって、講義(儒教・道教・仏教・哲学・科学)を定期的に開催したり、個別でお悩み相談を受けたりする感じですかね。
貧しい子供たちには、子供食堂や虐待、DVの駆け込み寺的な機能もあれば・・・と思ったりもします。

そういった感じで、普段は喫茶店のマスター的な暮らし方をし、歴史書や様々な本を読みつつ、猫のお世話をして、静かな時を過ごす。
で、困った人々が相談に来れば、なにがしかのアドバイスをしたりする。

漠然としていますけどね。
こういった感じで、人のお役に立ちつつ、自分の精神の穏やかさも保ちつつ、残りの人生を歩めたらなあ・・・とは思いますね。

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。