見出し画像

邪馬台国の謎 (24)

邪馬台国の謎シリーズ。
なかなか筆が進みませんで、申し訳ないです。

今回は、邪馬台国畿内説を取り上げてみたいと思います。

畿内説や九州説を取り上げるとなると、どうも筆が進みにくくなります。
広範囲かつ深堀りされている説が多く、ざっくりとまとめるのが難しすぎて、悩ましく感じられ、筆が進まなくなったというのが、正直なところです。

さて。
ここ最近の邪馬台国論争で、もっとも可能性が高いとされるのが、邪馬台国畿内説です。特に、纏向遺跡は邪馬台国の最有力候補とされています。

ここで、邪馬台国畿内説の根拠を見ていくとしましょう。

まず、文献の観点からですが、
邪馬台国畿内説では、【方位の誤謬】として解釈論を展開することになります。

魏志倭人伝では、その道程の中で、末廬國(松浦)から伊都國(糸島)までの方位を【東南陸行】としています。
でも、現実の松浦から糸島は、【東北】となります。
90度近い方向違いになります。
このことから、魏志倭人伝は、倭国を南北に広い島国と認識しており、記載されている【南】は90度傾いて【東】と読むべきだというのが畿内説の主張となるわけです。

この考え方、解釈方法は理に適っていると思います。
そう考えれば、

実際には東北へ進む 末廬國(松浦)⇒伊都國(糸島)は、方位的に正しくなります。

その一方で、奴國(福岡市那珂郡)は、伊都國(糸島)からは、現実には真東に位置するのに同じく東南と記述するのは若干のずれを感じることになります。
また、奴國から東に位置するとされる不彌國は、90度理論を使うと北へ向かうことになります。
不彌國の比定地としては、複数の説があり、宇美町や飯塚市、太宰府といった内陸から福津市や北九州市といった沿岸説まで色々とあります。

奴國まで、古代地名に近い発音の地名が比定されていることを踏まえると、福岡市宇美町は、魅力的な地名ではあります。
もっとも、後世まで地名が伝承されるかどうかは、その地その地で違うでしょうから、一概には言えないんですけれども・・・

いずれにせよ、【方位の誤謬】が大きいとすれば、投馬國や邪馬壹國も南ではなく東でも良いことになり、純粋に水行20日で投馬國。水行10日+陸行一か月で邪馬壹國とするなら・・・
たしかに近畿圏まで到達しておかしくないですよね。

次に、根拠として挙げられるのが、遺跡と出土品という考古学的アプローチからです。

巨大遺跡である纏向遺跡や銅鏡の出土品の多さです。

奈良県桜井市の茶臼山古墳では、十三種類八十一面の銅鏡が発見されています。

他にも畿内説を裏付けるとされる根拠は多々あるとされています。

が・・・
個人的には、大和政権が卑弥呼を仰ぐ女王国の後継であるとは、私には考えにくいのです。
邪馬台国が近畿にあったとするところまでは、「あり得る」と思うのです。
その一方で、大和政権が女王卑弥呼の国の後継であった・・・というのは、考えにくいのです。

理由としては・・・

まず、日本書紀や古事記に邪馬台国との関係性が見えない点があります。
日本書紀編纂者ですら、神功皇后ですかねえ? という感じで、ぼかしている状態で、大和政権の伝承の中に「女王卑弥呼や女王国に比定可能な伝承」が見つかっていないことです。

また、纏向遺跡は前期後期で出土品や埋葬での断絶があります。
文化や伝統が継承され、変化していくのなら分かるのですが、急速な入れ替わりであり、他地域からの流入になっています。

少し話は違いますが、神武東征で大和へ入った時のお話です。
東征軍の男たちは入れ墨をしていました。
これに大和の人々は驚いているわけです。
ここで、魏志倭人伝における倭国の風習が頭をよぎるわけです。
倭(主に女王国連合)では入れ墨をする文化があったわけです。
つまり、大和が女王国の文化圏である場合、入れ墨に驚くのはおかしいということになります。

大和在来の文化に入れ墨はなく、神武東征で入れ墨文化が流入した。
女王国にも入れ墨の文化はあった。
(入れ墨文化は九州にはあったが、近畿にはなかった)
纏向遺跡は前期後期で外来人種の流入が読み取れる。
神武系(大和政権)に女王との接点となる伝承がない。

以上のことから、前期の纏向遺跡は女王国ではなく、大和政権の祖でもないと考えられる次第です。
(後期の纏向遺跡が大和政権だと考えています。)

ですから、私が邪馬台国畿内説を採るなら、女王国≠大和政権という立場になります。
というか、畿内ではなく邪馬台国近畿説と改めるような気がします。
考えられるとするならば、女王国は大和政権、あるいは、それ以前の旧大和に滅ぼされた、という感じでしょうか。

他にも、疑問が尽きない点があります。
邪馬台国畿内説を採る場合、女王国は、北部九州から中国地方、近畿地方までの連合王国だったということです。

戦国時代をイメージしてみてください。
これほどの版図となると、龍造寺や毛利、宇喜多、細川、浅井、朝倉クラスを合体させたぐらいの大大名になるわけです。
これほどの大国と戦った狗奴国とは、どれほどの強大さをもっているのか???

武器の質でいえば北部九州を領有し、大陸から最新の鉄器を輸入できる女王連合の方が、はるかに優位に立たなくてはおかしいのではないか? と思います。

にもかかわらず、攻め込まれて劣勢に立たされ、魏に急使を派遣しているんですよね・・・

こういった事情から、いくつもの有力な根拠があるにもかかわらず、畿内説に対し、懐疑的な気持ちを抱いているわけです。

当時の日本列島において北部九州から中国地方、近畿地方北部を版図とする連合国家に対抗しうる超巨大勢力が存立しえたのだろうか?
仮に西遷や西征神話があれば、東日本にその勢力の存在を考察したでしょうが、日本古代史の大部分は西日本に集中しています。
となると、南部九州・四国・近畿南部にしか、対抗勢力は存立できないのです。

大和政権が女王連合を打ち破る、もしくは、狗奴国が女王連合を打ち破るとして、これほどの大国と対峙し、打ち破るとは、どういう経緯で成し遂げられるのか?
はなはだ疑問です。
もちろん、内紛があり自壊したということは考えられます。
一枚岩ではなく、連絡手段も限られる古代であれば、各個撃破で打ち破る可能性はあります。

その割には、狗奴国から攻撃を受けた際に、魏へ救援を要請し、魏も使者を遣わすという迅速さを見せています。

この規模感を見ると、女王国が北部九州の連合体であり、狗奴国が南部九州の一大国家であるとする方が、頭の中ではスッキリするんですよね。
だから、現状の私は、九州説の方が、まだ納得しやすい感じです。

それでも・・・
まだまだ解明されていくべき部分が多い邪馬台国論争。
私の見解も今後変化していくかもしれません。

その中で、最近、非常に気になる存在になったのが、長髄彦ファンさんの【邪馬台国近江説】です。
私としては、近畿圏に女王国の都があったとするのならば・・・
【邪馬台国越前説】と【邪馬台国近江説】
を推したいと思っています。

また、大和政権と女王卑弥呼は近しい存在ではないだろうというのが、私の現在の見解です。
(もちろん、新事実の発見があれば、今の見解を撤回する可能性はあります。w)

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。