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邪馬台国の謎 (26)

 すっかりご無沙汰しておりましたが、邪馬台国の謎についての考察です。

前回、私は【邪馬台国九州説】を最右翼で考えている点について軽く触れさせて頂きました。

ただ、ここ最近のトレンド(特に考古学の分野)は、【邪馬台国畿内説】となっていてメディアでも、畿内説で決まり、みたいな扱い方になりつつあるようです。

どうしてここまで、九州説が押されているのか? というと、

道程の距離感 と 遺跡の規模感

の二つにあるといえます。

どの学者さんも、不弥国ふみこくまでは、九州北部にあるというのが定説となっています。
そこから先、投馬国とうまこくで水行20日。
邪馬台国で水行10日陸行1月(30日)という距離感に変わります。
この二ヵ国の行程が長大なので一気に近畿圏まで距離を延ばすことが可能になってしまっているんですね。

また、魏志倭人伝では、代表的な大国である奴国2万戸、投馬国で5万戸、邪馬台国で7万戸という人口表記がなされています。

【戸】や【家】が、どういう単位なのか? は、判然としていません。

一家や一戸を4人でカウントすればいいのか? 5人なのか? それとも全然違うのか?
良く分からないんですね。

当時の日本人の総人口は、推定で60万人と言われていますので、1戸4人だとすると、奴国+投馬国+邪馬台国の14万戸x4人=56万人。

ほぼ全ての日本人が、その三カ国に住んでいたことになり、数字上、かなりの無理があることになります。

そして、これだけの人口を養いきるだけの耕作地がないというのも九州説が否定される根拠にもなっています。

確かにそれはそうなのですが・・・

そもそも 魏志倭人伝の ”数値表記” が間違っている

としたら、話は変わってきます。

え? 何を言っているんだ? と思われるかもしれません。

が・・・
中国の歴史書を読むと、「異様に正確」な時と、「恐ろしく鯖を読む」時があることに気づかされます。

戦争の時でも当時の人口からはありえないレベルの人数として、”百万の軍”が登場しますし、日清戦争の旅順事件でも、日本側は中国人の死者1500人と発表したのに対し、中国側は2万人の死者が出たと発表しています。
南京事件でもドンドン人数が嵩上げされて初期段階の1万5000人ぐらいが、今では30万人と表現されるに至っています。

こういった大げさな表現は、【露布ろふ】と呼ばれ、古来から定番の表現スタイルでした。

このように、中国の歴史書では、数量について誇大表現を用いることがある、ことに注意しなければいけないと考えている次第です。

つまり、”政治的思惑により数字が操作されること”は、ごく普通に発生したわけですから、魏志倭人伝においても、数字に関する信ぴょう性が薄まることを前提に考察が行なわれなければならないということになるわけです。

政治的思惑を考察に加えるには、当時の魏王朝で何が起きていたか?

を知ることが必要になります。

当時、東北方面を統括していたのは、司馬懿しばいです。
諸葛孔明しょかつこうめいのライバルとしても有名ですね。
邪馬台国が朝貢した時点(238~239年)では、孔明(181~234年)は、すでに亡くなっていますが。

その司馬懿と肩を並べる存在となったのが、大将軍・曹真そうしんの息子・曹爽そうそうでした。

つまり、司馬懿にとっては曹爽とその父の曹真が遺した実績が目障りだったわけです。

曹真が遺した実績とは

大月氏国からの朝貢(帰順)です。
洛陽から大月氏国までの距離は、1万6370里。
その人口は十万戸以上あったとされています。
どちらの数字も正確なものであるとされています。

遠方の大国からの朝貢

という輝かしい実績をもつことは、中華の世界に生きる人々にとっては重要なことでした。

世界の中心に位置する中華圏の為政者にとって、自分の威徳が行き渡る距離が遠ければ遠いほど優れていると自慢が出来たからです。

となると、司馬懿にとっては、ライバルとなる曹爽の父・曹真が遺した実績を上回らなければなりません。

洛陽から帯方郡までは、五千里あります。
ここで大月氏国に勝つには、一万二千里以上の距離を稼がないといけません。
でも、実際にはそんなに距離がないんですね。
そこで使ったのが 短里計算 だったと想定されるわけです。

そして、人口も邪馬台国連合が 十万戸を超える ように嵩上げしたと考えられます。

このように、魏志倭人伝が、”政治的意図”をもって数値的に嵩上げされていると考えると、【邪馬台国九州説】の弱点が雲散霧消していくことになるわけです。

もちろん。
正確な数値表記だった可能性は否定できません。
現時点で明確な証拠はないものの、司馬懿が政治的優位を築く上で、曹真の実績を過小評価させていく事例は散見されていますので、的外れな仮説ではないように考えています。
九州にある遺跡の規模が小さくても、魏志倭人伝では嵩上げされた表現になっていると考えれば、考古学的に見ても、九州説の可能性は出てくると思っているわけです。

そういう前提で次回以降も九州説を掘り下げていこうと思います。

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。