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私の愛するサウナ3選

はじめに

私はサウナが好きだ。
ここ数年のサウナブームに便乗する形でデビューした口であるが、その存在はマイブームという枠組みを超えて、生活の文化として根付いていると言っても過言ではない。

サウナとは瞑想であり、内観である。
一切のデジタル機器を手放し、ただ静かに己と向き合う。そして、温と冷の状態変化を繰り返すことによってもたらされる法悦感。界隈ではこれを「ととのう」と表現するが、私はある種の解脱なのではないかと思っている。

今回は、極めて解脱に近づける至極の3施設を紹介したい。

笹塚 マルシンスパ

私は渋谷区笹塚に生まれ、育った。
人が遠くに山や海をみて故郷を思い出すように、私は遠くに新宿のビル群をみて故郷を思い出す。
人が大地の匂いで故郷を思い出すように、私は甲州街道の排ガスで故郷を思い出す。
マルシンスパは、そんな私の故郷にあるサウナだ。

鉄道、高速道路、居酒屋・パチスロと、都会の喧騒が役満状態でひしめく場所に、それはある。
都会らしい狭い敷地面積のうち、湯船よりもはるかに大きな水風呂を備えているのは、私たちを本気でととのわせようとしている証であろう。ちなみにこの水風呂は、天然の地下水を使っているらしい。なんとも憎い仕様だ。

ところで、この施設はビルの11階に位置し、外壁には窓がある。
窓から見えるのは都会の景色であり、窓から差し込むのは都会の風だ。
しかし、天空から眺める笹塚には、どうも都会の喧騒という言葉は似合わない。
そこには生活する人のリズムが見え、街としての垢抜けなさがある。
一見無愛想な駅ビルに、昔ながらの商店街の暖かさを覚える。
規則正しいであろう電車の往来に、少しばかりの人情が見える。
小窓から見える都会のワンシーンには、私のみならず、誰もがノスタルジーを感じるはずだ。

サウナストーンを囲い暑さに耐える男たちには、都会的な洗練さはなく、どこかプリミティブな存在に見える。
そう、ここは、都会で生きる人間を、都会というしがらみから解放する場所なのだ。
狭い浴場で水風呂とサウナを行ったり来たりするうちに、ととのい、そして、原点に回帰する。

浴場から出た後のお楽しみは「ベランダでの外気浴」だ。答え合わせをするかのように、街の景色を眺め、都会の中に人間味を探す。
全てを終えて天空から下界に戻るころには、来るときに感じた「都会の喧騒」がまた別のものとして感じるに違いない。

池袋 タイムズスパ

この世の贅沢とはなにか。
その答えのひとつは、池袋 タイムズスパへ行くことに違いない。
ここには二千円台で享受しうる最大限のラグジュアリーが詰まっている。

それの体験は、入り口から始まる。
エレベータを降りたその場所から、心地よいアロマで満たされているのである。
スパや銭湯でがっかりするのは「嫌なカビ臭」を感じる時であるが、ここにはその概念が存在しない。館内全ての清潔が約束されたその香りにより、一切の不安なく足を進められる。
フロア移動のない完璧な導線で受付から脱衣所、浴場まで行けるのも流石だ。

浴場は程よく広い。
浴場は広く、そして天井が高い方が好みだ。音響効果が高まり、没入感が上がる。
サウナに入り、水風呂に浸かり、室内のリクライニングチェアに横たわり目を瞑る。
近いはずの水の音が、心なしか遠くから聞こえてくる。その音に集中していると、ふと桃源郷に迷い込んだ錯覚をする。

しかし、タイムズスパの醍醐味は「外気浴」である。
屋外へと通じる扉を開けると、そこにも湯船とリクライニングチェアがあり、空を眺めながらの休憩が可能となっている。
決して広いとはいえない空を眺めながら見つけるのは、四季だ。
春の陽気が夏の照りつける太陽へ変わっていくのを感じる。
秋のそよ風が冬の凍てつく風に変わっていくのを感じる。
ここの四季は全身で感じるのだ。
かつて日本人が四季の移ろいを歌に残したように、そのありがたさや儚さを噛みしめるだろう。

浴場を出た後の締めは、ラグジュアリーの権化ことデトックスウォーターだ。入り口の近くにあるので、忘れずに飲もう。

早稲田 松の湯

銭湯はローカルに根ざす。
駅からのアクセスは考えられておらず、圏外の人を呼び寄せる施策もない。
そこには地元の人の生活が色濃くある。
早稲田という土地柄、客はおおよそ「学生」か「地元住民」かに分類される。
学生の会話に耳を欹て、青の青さを感じ、熱心に体を洗い続ける老人を見て、悠久の時に想いを寄せる。
高い天井の向こうに存在する女湯に気がいくのは、男の性だ。

そんな賑やかな浴場と一気に断絶されるのがサウナ室である。
銭湯のサウナは人気がない。別料金で根が張るのと、風呂として通う人の興味関心にはないからだ。
ほぼ確実に、貸切状態を味わえるだろう。
狭く1列しかないサウナ室に座ると、見えるのは壁、そして砂時計。
テレビも BGM もない。憎いことに、温度も高めだ。
ここのサウナには本当の意味での孤独がある。
永久機関に思える砂時計を眺めながら、ひたすらに己と向き合う。
森羅万象を理解する一歩手前で砂時計は終わりを迎え、サウナを出て俗世へと戻る。
水風呂で頭を冷やしつつ、温度と世界観のダブルの高低差に否応無くととのわされる。
不思議な感覚を味わいつつ、自分もまた、この銭湯の客の一人であることを実感する。

暖簾をくぐって銭湯を出ると、まるで自分が神隠しにあっていたかのような錯覚のもと、日常へと引き戻されるだろう。

※ 本稿は技術書典7で配布した合同誌へ寄稿した文章の転載です。

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