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舞台「共骨」感想

2020年3月7日、8日。オフィス上の空プロデュース「共骨」観劇してきました。とてもじゃないが140字じゃ表しきれなかったので、ぽつぽつと感想のような物語を分解して整理する乱文のようなものを書きました。容赦なくネタバレしてるのでこれから観劇予定の方はどうぞご遠慮ください。

沈黙と張り詰めた空気の中、読経と雨の音から幕が上がる。生と死、終わりから始まりへ巡っていく。終わりから、はじめる物語。

観終わった後、普通じゃないけど普通の少女が普通を手に入れた大人へと成長していく物語なんだなと思いました。うーん。この言い方も正しいのかわからない。
極々当たり前のことだけれど、環境も相俟って板の上が全てフィクションだという感覚がはっきりとしていた。飾られた額の中で空気も含め生きたまま存在している芸術作品、みたいな。例えが下手くそか。我々観客はそのフィクションの世界に呑み込まれる。

母の遺骨を食べ、その身に母を宿す。成長と共に母の遺骨が骨を蝕み、自分の骨を母のものへと作り替えられていく。
痛みと共に現れる母、母の幻影。恐らく鏡のようなもの。成長するに従い、その存在を疑い、否定しながらも受け入れ、解放する。母が死んだ日からずっとずっと追い求めていた母の姿を手放すことができた、自分を許し、向き合い、選択することができた。そこに辿りつくまでの道のりは歪で困難であったが、遠くにきた、と。

14歳のときに、母の姿に対する答えはすでに用意されていた。神様ではない。母が帰ってきたわけでもなかった。母を失った痛みを押し付けて出来上がったものなのかと。母を作り上げるためのきっかけとして心因性の骨の痛みが出現しているのだと思っている。

母の独白は最初から母ではなかった。最初からわたしが作り上げた母が語る物語だった。語り手としての母の姿は現実味があるのにどこか幻想的で、枠の外の存在なのだと思えた。遺影と母の表情の差。回想の母は生きている人としての表情だったが、成長するにつれて徐々に表情の変化が乏しくなっていくように思えた。死んだ人間がどんな顔で話し、笑っていたか思い出せなくなる感覚か。

ムービング、照明、音響全てが15歳の少女を襲うとてつもない恐怖でしかなかった。だがその恐怖に反して拒絶はいとも簡単であった。近親相姦が未遂に終わって良かったのだと思う。綺麗事ではあるが、あれが一線を越えていたらきっと絶望を受け入れてあのまま父と共に朽ちていたのではないかと思っている。→境骨を読んだ。これはまた別の話。
家族としての室堂家は歪でしかなかったが、その中には純粋な愛しか存在してなかったと感じる。家族愛と夫婦愛。父はただ純粋に家族を、妻を愛していただけだった。愛する妻を失ったその計り知れない痛みは描かれず、娘を妻と置き換える歪な愛情へと上塗りされてしまった。ただ最期にその歪みが取り払われ、昇華されたことが救いであった。

死して肉体が朽ち、焼け、残った骨になっても最期が終わった後もずっと共にいることを選ぶ。多くの人と出会ってやっと選択できたのだなと。彼女の人生で出会った人々が逆光の中、彼女を見ている。その中で一人を選ぶ。何気なく見えるその選択がどれほど大きな意味を持つのかと思うと胸が苦しくなった。

美沙が成長していく様が美しかった。小学生から大人まで途切れることなく演じきれるということがどれだけすごいことかと。朝希との関係で様々な要因に触れ変化していく様がとても苦しかった。それを受け入れる朝希の人間らしさ、懐の広さ、素直さが美沙を救っていく。小声でもはっきり通る声とその力強さがとてもすばらしかった。

個人的なやつなんですけど、識者、警察官、医師は全て美沙の変化のきっかけに立ち会う人物で、血縁でもなく深くは関わらない立ち位置にいる唯一の成人男性だなと。識者は中学生の美沙に母を疑うきっかけを、警察官は朝希と家族になるきっかけを、そして医師は父と再び向き合うことになるきっかけを(正しくは違うけど)。美沙に直接関わる訳ではないけれど、必要な要素とされているのが彼で良かったなと。

美沙は自ら選ばない・選ぶことができないが、周りの人間から選ばれている。美沙に限らず渦中にいる人間はそれに気付かないし気付けない。選ばれない人間も存在する。フィクションだからこその選択が、果たしてこの現実世界でも同じように選択できるのか。選ぼうと気付いたときには既に手遅れだったりする。現実は思うようにはいかないけれど、少しでも自分自身が何かを選ぼうと考えられるようになればいいなと思っている。

最後に、様々な公演が中止や延期になる今この大変な時期に、無事に公演を開催できるよう尽力してくださったキャストの皆様、関係者の皆様に深い感謝を。千秋楽までこの世界が途切れることのないよう、祈っております。

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