シェーラー館の歴史:第二部 カントリーハウスへの改築:ヘッセ家とジーブルク家の時代(1765年~1802年)

バロック建築の館

ラインケ家の相続人は売却にあたりヘッセに、「建材を持ち込んで、庭に自由に手を加えても良い」と許可している(当時は売却した後の用途について元の持ち主が条件をつけることができた模様)。
ヘッセは1765年末から1766年初めにかけて、大規模な改築を行い、フーアマンが建設した当時の簡素なビュトナーハウスを、当時の基準では堂々とした快適なバロック様式のカントリーハウス(Landhaus)に作り変えた。
基礎部分と一階部分は現在にまで残る当初の寸法のままだが二階が増築された。
高さのある各階8つ(片面)の窓には、シンプルな枠が取り付けられ、上部には貝の装飾が施された。

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写真:シェーラー館の正面

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写真:シェーラー館の裏面(元の庭園側)

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写真:側面

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写真:シェーラー館の窓

二階の窓のすぐ上には、小さな対の持ち送り(Doppelkonsolen)に支えられた幅広のマンサード屋根(注1)があり、片面に3つずつのマンサード窓(Mansardenfenster)がある。

なお、建築家の名前は伝わっていない。

注1:マンサード屋根(Mansardgiebeldach):17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサール(François Mansart、1598~1666)が考案したとされる。ドイツではギャンブレル屋根との区別はなくほぼ例外なくマンサード屋根と呼ばれている。

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図:切妻マンサード屋根(Mansardgiebeldach、出典:Wikipedia)
注:上記はドイツ語からの直訳であり、日本語の用語とは一致しない可能性がある。

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図:寄棟マンサード屋根(Mansardwalmdach、出典:同上)

現在でも玄関を入ると、右手に半円形のニッチがあり、その上に果物の房状の飾り(Fruchtgehänge)があることから、かつてこの場所にストーブがあったことがわかる。
二階へと続く階段には、豊かな彫刻が施された手摺りがある。
天井は低いが、かなり広い部屋もあるので、田舎での応接的な目的には十分に対応できたのではないかと想像される。
現在はヴィルマースドルフの郷土博物館(Heimatschau、現存せず)に設置されていた黒い陶製ストーブ以外には当時の調度品は何も残っていない。
このストーブのタイルには、フリードリヒ二世のモノグラムと衛兵の星(Gardestern、近衛兵の帽子に付けられていた)などフリードリヒ二世時代によく使われていた装飾が施されている。

なお、この家は、当時の資料の中では「城」や「城館」とは呼ばれていない。民間人の屋敷に対するこのような呼称は城が作られなくなった時代になって、使われるようになったものである。

1766年の収穫期には、ヴィルマースドルフで大火災が発生し、村の南側のほとんどが焼失した。
しかし、リッター牧師(Pfarrer Ritter)の教区年代記(Pfarrchronik)には、村の南側の大通りの端に新しく建てられたカントリーハウスが火災を免れたことが明記されている。

商人コルネリウス・アドリアン・ヘッセ個人については、ほとんど知られていない。
1753年のベルリンの「著名な商人」のリストでは、「織物・絹商人」として「Hesse」という名前の商人だけが記載されている。
1763年には、「愛国商人」ゴツコフスキー(„patriotischen Kaufmann" Johann Ernst Gotzkowsky)と交流のあった会社の中に「ヘッセ兄弟&ヒンツェ会社」(Gebr. Hesse et Hintze)という会社が登場する。
1766年には、コルネリウス・ヘッセ(Cornelius Hesse)とルートヴィヒ・ヘッセ(Ludwig Hesse)が中心となって木材商人が集まり、「材木取引会社」(Nutzholzhandlungs-Compagnie)を設立した。
おそらく、七年戦争の時に非常に儲かった木材貿易で多くの収入を得ていたものと推定される。
したがって、ヴィルマースドルフの地所の購入者は、1753年に言及された織物・絹商人ヘッセあるいは1766年に言及された材木商人コルネリウス・ヘッセである可能性がある。

いずれにせよ、この地所を購入したコルネリウス・アドリアン・ヘッセが、18世紀末から19世紀にかけてベルリンでは群を抜いて大きな600台の織機を擁し、「毛織物メーカーのヘッセ兄弟」として知られ、よく知られた両替商を経営し綿布や亜麻布の製造も行なっていたパウル・ヘッセ(Paul Hesse)とコルネリウス・ヘッセ(Cornelius Hesse)の二人の兄弟の父親であることは確実である。
この一家はベルリンで最も裕福な商人であり、ベルリンで最上級の資本家グループに属していた。
彼らは、「造船河岸」(Schiffbauerdamm)に地所を、国王通り(Königstraße)に家を、ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)にアパートを、またシャルロッテンブルクにはサマーハウス(Sommerhaus)を所有していた。
1783年には早くも別の人物がこの地所を所有していたことから、ヘッセ兄弟は1781年頃に父親が亡くなった後、ウィルマースドルフの地所に対する関心を失ったものと考えられる。

実際に売買契約が結ばれるのは、1786年のことである。
コルネリウス・アドリアンが相続人として指名した4人の子供たちが、売り手として署名している:
1. 「夫の上級枢密顧問官ヨハン・アウグスト・ケーニヒ(Geheimer Ober-Finanz-, Kriegs- und Domainen-Rath Johann August Honig)を支援した」財務枢密顧問官マリア・エリーザベト・ホーニヒ、旧姓ヘッセ(Geheime Finanzräthin Maria Elisabeth Honig née Hesse)
2. ヨハン・パウル・ヘッセ(Johann Paul Hesse)
3. フィリップ・コルネリウス・ヘッセPhilipp Cornelius Hesse
4. カール・ディーダリヒ・ヘッセCarl Diederich Hesse

その価値は1765年からの20年余で3倍以上になり、このときの売却額は5,000ターラーであった。これは地価の上昇ではなく、ヘッセが建てた「壮麗で重厚」と評された母屋の他、外構や整備された庭園によるものだろう。

ジーブルク家

新しい所有者は、ベルリンの商人であり、キャラコ(平織り綿布)製造者(Kattunfabrikant)であるヨハン・ゲオルゲ・ジーブルク(Johann George Sieburg、1722-1801)である。
また、敷地内に桑畑を維持し、養蚕を行う義務も家とともに残された。
フーアマン牧師は、すでに1766年に有償で「桑の葉の常時使用」の権利を放棄していた。

ヨハン・ゲオルゲ・ジーブルクは、18世紀の半ばからカレー(Quarree、現在のパリ広場)に面したキャラコ工場を経営していた。
ベルリンの数あるキャラコ工場のオーナーの中で、彼だけがレヴァント諸国(東地中海地域)から直接綿花を購入し、その代金を現金ではなく、より有利な商品で支払っていた。
1777年、彼はツィンナ修道院(Kloster Zinna、ベルリンの南約60 km)の近くにあった大きな綿布と亜麻布の工場を取得した。この工場は、王がレーバウ(Löbau、ザクセンの都市)から呼び寄せた織物職人のために設立したものだったが、経営はうまく行っていなかった。
シーブルクは工場を復活させ、70台の織機を稼働させ、プロイセンで最大の木綿メーカーとなった。
彼は、大陸で知られている糸よりも細くて良い糸を作る秘密を探るために、息子をイギリスに送り込んだ。
息子は、この新しい紡績機(Spinnmaschine)や粗紡機(Präpariermaschine)を、イギリス人の織工とともにベルリンに持ち込むことに成功する。
このようにして、ジーブルクはカレーに蒸気機関を動力とする近代的な機械紡績工場を設置した。
最初は経済的にうまくいかなかったが称賛を受けた。
ジーブルクは貿易工場以外にも穀物の売買や融資も行っており、匿名の中傷ビラには「街でよく知られた高利貸しの一人」と書かれることもあった。

この傑出した商人はヴィルマースドルフで、自分と家族のために田舎の静寂と開放感を求めただけではなく、ベルリンの門前にある小さな村で個人的な興味とビジネスを結びつける機会を感じ取った。

1788年5月15日の最高閣議決定(Allerhöchster Cabinettsorder)によると、彼は「木綿とウールの糸をトルコ式の真紅に染めるというプロジェクトを完全に実行し、この染色工場を拡張するすることを条件に」2万ターラーの政府特別融資を獲得した。
このローンは以下の条件を達成した場合には返済不要とすることとされていた:
「1. 王の意向に沿ってトルコ式染糸工場を大規模に経営し、1791年に染色・販売されたトルコ糸の量2,770ポンドを増加させる
2. 1788年5月27日から10年間、すなわち1798年5月27日まで、同じ方法でこのトルコ糸の染色事業を運営し、拡大してきたことを証明できる場合」

ジーブルクは、「トルコの赤」を自分で製造するために必要な茜(Krappflanzen)を栽培できる土地を探していた。
その頃、ヴィルマースドルフの王立農場が貸し出されることになり、ジーブルクは1791年に、最初は一時的な借地契約(Zeitpacht)で、1794年からは永代借地契約(Erbpacht)でこれを引き継いだ。
ヘッセ家から購入した「立派で重厚な住宅」や外構、そして羊小屋の隣には「長さ142フス(約45m)、奥行き42フス(約13.5m)の染料工場」を建てさせている。
工場の建物は、「傾斜した屋根と5つの容器のほか、移動式の染料抽出機、乾燥窯」を備えていた。

工場の価値は4,809ターラーと査定され、テルトウ郡地区火災保険組合(Teltowschen Kreis-Feuer-Societät)に3,500ターラーの保険がかけられていた。
シーブルクは、「茜の栽培方法を知っている外国人、特にアルザス地方出身者」を採用して、茜をを栽培した。

政府は、これらの労働者のために、王室の費用で大型の二世帯住宅を3棟建設することを約束したが、その建設が何度も延期されたため、彼は1795から翌年にかけて住居、納屋、菜園を備えた2モルゲン(約0.5ヘクタール)の小さな農場を取得した。
この農場の元所有者である小農のボルツェ家(Christian Bolze)には、ジーブルクの依頼で茜栽培農家のバイアー(Anton Bayer)が200ターラーを支払った。

その後、ジーブルクの事業は見事に成功し、1798年には10年前に用意されていた2万ターラーが、「当時の条件を満たしただけでなく、義務を大幅に上回る生産を達成した」として、ジーブルクに贈与された。
それまでは主に羊の飼育に使われていた郊外の土地に、異様な活気がみなぎったことに素朴なヴィルマースドルフの農民たちは驚いたに違いない。

王立農場の借地権者である商人ジーブルクが、村自体の改善のためにやってもらいたいことを報告する資料が残っている。
この文書で彼は「消防小屋」の移動や村内の施設の改善を提案していた。
村のクッツバッハ牧師(Pfarrer Kutzbach)は、消防設備を牧師館の敷地に移すことを希望していたが、農場への車道が狭くなり、十分な積載量の収穫用カートが通れなくなるため、当局から拒否されてしまった。
そこでジーブルクは、消防設備を自分の工場に移し、それまでの消防小屋に村の共同かまど2基を設置しようと考えた。
ジーブルクは、村通り(Dorfstraße、現在のヴィルヘルムスアウエWilhelmsaue)をよりクリーンな外観にしたいと考えていた。村通りの両端に池を掘って、そこに溜まった水を集めれば、「村や牛のために役立つだけでなく、火事の危険もない。」という提案もおこなった。
彼の計画のいくつかは後に実現された。

ヴィルマースドルフ村の教会(Wilmersdorfer Dorfkirche、現在のアウエ教会Auenkirche)の洗礼台帳には、ジーブルク家とヴィルマースドルフの住民との友好関係を示す記述が繰り返し見られる。
ジーブルクは1801年4月11日に79歳で亡くなった。
残念なことに、地方史博物館(Märkischen Museum)に所蔵されていた彼の肖像画は、戦争で失われてしまった。
また旧王宮博物院(Schloßmuseum)が保管していた彼のキャラコ工場のサンプルを掲載した見本帳(1800年)も同じ運命をたどった。
息子のゲオルゲ・ユストゥス(George Justus)は、銅版画や古代の美術品のブロンズ製レプリカのコレクションを所有していたが多額の借金を抱えていた。
そのため1815年まで母親が経営していたベルリンの工場も、ヴィルマースドルフの工場も相続することはできなかった。
1802年にジーブルク家は王立農場の借地権を商人であり大地主であるエッカートシュタイン男爵(Baron v. Eckardstein)に売却した。
染料工場もその後取り壊されたと推定される。

ヨハン・ゲオルゲ・の娘、ゾフィー・ユスティーネ・フリーデリケ・フォン・ベルク(Sophie Justine Friederike v. Berg)とマリー・フィリッピーネ・アマリエ・フォン・シェルテン(Marie Philippine Amalie v. Schölten)は、いずれも貴族出身の軍人と結婚している。
しかし、ヴィルマースドルフ湖畔にあったカントリーハウスは、1803年には他の人の手に渡っていた。

購入契約書の日付は1802年5月6日で、新しい所有者としてはベルリンの有名な銀行家、エティアン・ベネッケ(Etienne Benecke)の名前が記されている。
売却金額は調度品や道具類を含め8,000ターラーであった。
ジーブルク未亡人が要求したのは、すべてのベッド、ベッド台、磁器、グラス、台所用品、タンス2竿だけであった。

契約書の第4項には
「1752年3月15日のブランデンブルク辺境伯領の相続規定によれば、本物件には桑の栽培と絹の生産の義務がづけられているが、これは30年以上行われていないので、売り手はこれを保証し、買手にこれを行う請求があった場合、売り手の費用で本物件をこの負担から解放することを約束する」とある。

この地所に関して養蚕に関する記述が登場するのはこれが最後となる。
フリードリヒ大王が情熱を注いだプロイセンの養蚕は、結局実を結ばず、絹に綿布が勝つ結果となった。(第三部に続く)

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