男女の友情論をモノサシの違いに例えると

朝から投稿する話題なのか疑問だけれど、男女の友情は成立するか論について考える。

私の結論は単純で、成立するという人には成立するし、しないという人には成立しない、これに尽きる。私自身は、成立すると思っている。もしも男女の友情が成立しないのなら、同性との友情も成立しないと思うから。

そしてこの問題にはほかに、どこからが友情か、どこからが恋かという議論もある。私は、心も身体も友達とは一線を越えたことがない、というスタンスだ。友達っぽい関係でも、相手のことが好きであればそれは「好きな人」だった。

ただし、私の考えを持ってして、「だから男女の友情はこうあるべき」なんて、少しも思わない。身体の関係があっても心がなければ友達という人もいれば、付き合っていないという事実さえあれば、好きでも友達だという人もいるだろう。

これは単にそれぞれが持っているモノサシの違いなだけで、メジャーで測るか、それとも定規か、はたまた三角定規を使って測るのか、そのような違いにすぎないと思う。

各自が友情と決めた関係は、その人にとってはすべて正しい結論だ。球体をメジャーで測って長さを測った人に対して、「いやいや、それは定規で測りなさいよ」なんてことを言うのはナンセンスだ。しかし、私もモノサシの違いに気づかず、過去に余計なことを言ってしまったことがあり、深く反省している。各々の価値観を知らないと、相手を尊重することはできない、ということなのだろう。

お互いに持っているモノサシが違えば当然意見の食い違いはある。しかし、相手に自分の持っているモノサシに変えて貰うというのはなかなか難しいし、基本的に人を変えるという発想は傲慢だ。

だから、最近は相手に変えてもらうより、自分のモノサシを変える方が簡単じゃない?と考えている。持ったことのないモノサシを手にとってみたい、そんな好奇心もあるのかもしれない。

それでもまだ、今まで使ってきたモノサシを握りしめてしまっているのは、そのもの自体に愛着があったり、安心感があったりするからなのかもしれない。

つい忘れがちになるけれど、みんな形は違っても、何かしらのモノサシを持っていて、知らず知らずのうちに色んなものを測っては、これが正しい!と考えてしまうものだと思う。時々、全部のモノサシを持っていて自由に使い分けているような人もいて、そんな人は思考が柔軟で、偏りがないなぁと思ったりもする。

同じモノサシでたくさんの経験を積む人もいれば、モノサシを持ち替えて違う経験をする人もいる。経験値の上げ方も人それぞれだなぁと感心したりする。