クモザルの世界を垣間見て、そこに私がいる気がしたんだ
動物園に行くと、サルばかり見てしまう。最近のお気に入りはクモザルだ。昼の動物園は、夜行性の動物は眠っていたり、休んでいることが多い。しかし、クモザルはいつ行ってもサーカス団のごとく、縦横無尽に檻の中を走り回っている。
クモザルのサービス精神たるや見事だ。自分の体より大きい、枝や葉がついたままの木の束を尻尾に巻きつけ、そのままスタスタと檻をつたって移動し、最後にはそれをひょいと離し、巣とおぼしき場所に投げた。これぞまさにサーカスの技。思わず拍手をしたくなるほど匠の技だった。
そのまま檻の前で観察していると、今度は大サルと小サルが、ペアになり毛づくろいを始めた。するといつの間にか、大サルのうしろにもう一匹サルがやってきて、3匹セットで毛づくろいを始めた。お団子みたいに3匹丸まる姿は、愛くるしくて可愛い。
向かい合う大サルと小サルは、まるでハグでもしているよう。小サルが大サルの胸に顔を埋めて、安心しきった様子で毛づくろいをしていた。
そもそもサルが毛づくろいするのは知っていたが、あれは何をしているのだろう?
他の動物のようにノミを取っているのかな?と思ったが、どうやら違うようだ。
今度は、先程の3匹が団子になっている後ろで、新たな2匹が毛づくろいを始めた。
こちらは先程とは少し様子が異なる。
先程の3匹は、吸い寄せられるかのように自然と毛づくろいが始まったのに対し、今回の2匹は、1匹のサルがもう1匹の前で、バッッ!!と両手を広げてしきりに何かをアピールすることから始まった。
アピールされた子は、「仕方ないなぁ」とでも言いたげな様子。しぶしぶ、といった感じで毛づくろいが始まった。毛づくろいされている方は、終始偉そうな態度にも見える。完全なる先入観かもしれないが、毛づくろいする方も、義務感ありありのように見えた。
これって……挨拶の強制?
言うまでもなく、この2匹の毛づくろいは早々に終了し、先に毛づくろいをしてた3匹のうち、向かい合ってハグしながら毛づくろいをしていた2匹は、その後もなんだか互いに愛おしそうにずーっとくっついたままだった。
毛づくろいをしない人間は?
あの2組を通じて、クモザルという名のサーカス団の舞台裏、序列や掟を垣間見た気がしてならない。傍から見れば縦横無尽に自由に動き回っているかのように見えるクモザルも、群れの秩序を守ってサルの社会を生きているんだなぁと、しみじみと感じてしまった。
ロビン・ダンバー著『ことばの起源』によれば、猿の集団が大きくなり毛づくろいができなくなり、それに代わるコミュニケーション手段となったのが人間の「ゴシップ=言語」との説があるという。ゴシップとは言わないまでも、サルの毛づくろいのことを日々の挨拶や雑談、SNSの「イイネ」に例える人もいた。
グルーミングがあらわす2つの意味
クモザルの話から少し逸れるが、最近気になっている言葉がある。それは「グルーミング」だ。昨今、性犯罪の意味で使われるのをよく耳にするようになった。当然ながら、動物の世界でのグルーミングと、性犯罪のグルーミングはまったく別物だ。
毛づくろいという動物にとっては大切なコミュニケーションを表す言葉と性犯罪を示すことが、同じ言葉なのはなんだかやるせない。
言葉って、正確なように見えて、こういういい加減なところがある。だから、どんなに言葉に助けられて勇気づけられて、励まされても、言葉を盲信しないということは、いつも肝に銘じていたい。
言葉は、いい加減に扱うよりも丁寧に扱った方が良いのはわかっている。それでも、言葉が意味を超えることはないし、もし意味を超えた言葉があるのだとしたら、それは新たな言葉が生まれただけなのだと私は思う。
言葉の意味を裏付けるのは、いつだって誰かの想いだ。だからこそ、自分がその言葉にどんな意味をつけているのか、その意味はどんな想いからきているのかを丁寧に紐解くことは、素敵な言葉を紡ぐことと同じくらいに大切なことではないかと思う。
そんなことを以前も書いていた。
よく言われることかもしれない。もしそうだとしても、別に誰が何度同じこと言ったっていいじゃないか。減るもんじゃなし。
そもそも言葉って、誰かのものなんだっけ???
ありきたりのことを当たり前に言っていこう
誰もが、詩人や作家、噺家である必要なんてない。上手くやることよりも大切なコミュニケーションは、挨拶や雑談、誰にでもできる会話にこそあると思っている。
人と違う表現は、芸術や文学を志す方にお任せして、私はありきたりの言葉を当たり前に紡いでいきたいと思っている。
そして、常に100%の想いを言葉にのせてぶつけ合わなくてもいい。
例え上辺だけの人、中身がない人だと言われても、毎日一言交わす挨拶。その一瞬一瞬の積み重ねを大切にする。