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もう会えない人たちのこと

ふとした瞬間に、もう会えない人たちのことを思い出す。

それは、その人の好みに合ったバルの前を通りかかった時であったり、その人が好きだった球団の広告を見かけた時であったり、その人が行きたがっていた場所を動画で見た時であったり。そういった瞬間は、日常生活のあちらこちらにひそんでいる。

そのたびに、「あっ、あの人が喜びそうだな。教えてあげたいな」と思うと同時に、「あぁそうか、もうあの人に会うことはできないのだったなぁ」と再認識して、少しずつ自分の中で喪失を受け入れるという作業を繰り返している。その存在の筆頭は自分の母親なのだけれど、それはまたいつかの機会に。

先日、お世話になった上司が亡くなった。
一緒にお仕事をさせていただいたのは2年間だけだったけれど、色々なことを経験させてもらったし、部署が離れた後も、社内ですれ違うたびにこちらの様子を気にかけてくれていた人だった。

「末期がんでした。ガーン😨(笑)」
とかいう、ちっとも笑えないメッセージをグループLINEに投稿してから1年足らずで、その人はもう二度と会えない人になってしまった。

その、笑えないメッセージが送られてきた後、ちょうど同じチームで働いていた人が結婚したということで、みんなでお祝いのために集まった。闘病中の上司も来てくれた。病気になる前とは随分と様子の変わった上司を見て、なんとなく、この人と会えるのはこれが最後かもしれないなと思った。と同時に、いやいや、こうやって来てくれてるし、治療がうまくいってるってことだろう、次に会う時は快癒祝いかもしれない、と呑気な希望を抱いている自分もいた。末期がんを宣告された人がどうなるのか、今までの人生で知らぬはずもないのに。

結局は前者の予感が当たってしまったのだけれども、それを確信していたとしても、私はきっと、気の利いた言葉をかけることも改めて感謝の言葉を伝えることもできず、いつも通り「おつかれさまでした〜!」と言って笑顔で手を振っただろうと思う。

でも、それでよかったと思う。
上司としても憔悴しきった姿を私たちに見せたくはなかっただろうし、まだ自力歩行ができるうちに、みんなで爆笑しながら卓を囲み、楽しく時間を過ごすことができた。それが、私たちと上司が一緒に過ごした最後の時間になってよかったと思う。

今でも、その上司とよく遭遇していた社内のエレベーターホールに行くと、エレベーターが開いたら元気だった頃の上司がいて、「最近はどうや?」って声をかけてくれそうな気持ちになる。そしてそのたびに、「あぁそうか、あの人に気にかけてもらえる機会はもうなくなったんだなぁ」と喪失を再認識する。

あの人が安心できるように強くならねば、なんてことは思わない。私は私で弱いままで、これからもきっと、ふとした瞬間にあの人のことを思い出しては少し寂しくなって、そして数分後にはまた日常に戻るのだろう。それが、喪失を受け入れるということなのだろう。

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