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南都鏡神社

「新薬師寺、比賣神社」からの引き続きとなる今回は、神仏分離以前まで新薬師寺の鎮守社だった南都鏡神社です。
前回掲載した比賣神社は南都鏡神社の境外摂社にあたります。
新薬師寺南門のすぐ左に朱の両部鳥居を構えた社頭があります。

鳥居右に「南都 鏡神社」社標があります。
境内は正面に拝殿があり、その右手に本殿があります。
左手の建物は割拝殿となっており、南側の道路に繋がっています。

鳥居左の由緒。
「奈良市指定文化財 鏡神社本殿一棟。
この神社の本殿は春日移しの社。
春日大社古記録によると延享3年(1746)春日大社第46次式年遷宮による御造営のとき、旧本殿の第三殿を譲渡しとある。
昭和34年(1959)の修理のとき、屋根裏から「三ノ御殿」と墨書銘が2カ所から発見された。
移築当時に近い形状を留め価値が高い。」
ここに出てくる春日移しとは、春日大社では20年に一度式年造替が行われ、それに伴って旧社殿は近隣や関係の深い神社に下賜、移築する習わしを指すようで、春日大社本殿は国宝指定を受け移築は出来なくなりましたが、境内の摂末社は対象から外れるためその習わしは今も残ると云う。
春日移しによる本殿は各地に存在するようで、ここ鏡神社の他にも先に参拝した御霊神社本殿も春日移しによるものと云われるようです。

大和名所巡覧記(1891)より新薬師寺と鏡神社。
大きな建物が新薬師寺本堂で、南門の左が鏡神社の社殿になります。
割拝殿や鳥居の配置に違いはありませんが、本殿前に現在の拝殿が描かれていません。

入母屋瓦葺で梁間1間、桁行2間の拝殿は四方吹き抜けのものでシンプルな姿のもの。
右後方が本殿域で朱の鳥居の先に延享3年(1746)に移築された一間社春日造りの本殿が鎮座し、白壁で囲われており本殿域の左に春日造の社が祀られています。
拝殿の左側には祖霊社が祀られています。

鏡神社の創建は、天平から天平神護年間(729~767)に、現在の福智院に玄昉の弟子、報恩が肥前国唐津から鏡神社を勧請して祀ったのが始まりとされ、藤原広嗣の屋敷跡とされる現在地に大同元年(806)に移転し、新薬師寺の鎮守社とされた、また、社伝にはこの地は遣唐使発遣の祈祷所であったとされる。
明治以降、鏡神社は独立した神社である。

拝殿から本殿域の眺め。

藤原広嗣公は、文武の才に長け、天平10年に大宰少弐に任命されました。
しかし、朝廷の玄昉と真備の行動に対する不満から、広嗣公は天皇に上表文を送り、自身の考えを採用するよう求めました。
これが謀反とみなされ、広嗣公は討たれました。
その後、玄昉と真備は左遷され、広嗣公の霊は鏡尊廟で祀られ、霊信仰が広まりました。
玄昉の急死と真備の左遷は、広嗣公の祟りとされそれ以降、霊信仰が世にあらわれた。
その祟りを語る頭塔伝説があるようで、玄昉が急死すると遺体は奈良の地に飛散し、興福寺の境内に落ち、首は頭塔山に、腕は肘塚町に、眉と眼は大豆山町に飛来したと伝わるのだとか。

狛犬脇の解説は社頭の解説と同様のもの。
解説の左後方は祖霊社で右の本殿域に見える社が火雷天神をお祀りする「天神社」と思われます。

本殿鳥居前の狛犬は子取り、毬持ちのもので寄進年は見忘れました。

延享3年(1746)春日大社式年遷宮時の旧本殿の第三殿。
遷宮の際、春日移しと呼ばれる旧本殿を所縁のある近隣の神社に下賜する習わしがあった。(古いものも無駄にしないエコな文化があった、今の日本が学ぶべきことだと感じる)
昭和34年の修復以降も幾度か補修の手が入っているのだろう、屋根や壁面は傷みもなく、彩色も色鮮やか。
春日大社の本殿は見ることができないが、この一間社春日造の社が並んでいると思えばいいのかな。
鏡神社は開運招福、学業成就、家内安全、無病息災、交通安全の御利益があるそうです。

拝殿左の祖霊社。

境内西側から社殿全景。

こぢんまりとしていますが、綺麗に纏まった神社です。

南側の割拝殿からの眺め。拝殿の先に朱の本殿が望めます。

南都鏡神社
創建 / 天平から天平神護年間(729~767)
現在地遷座 / 大同元年(806)
主祭神 / 照皇大神、藤原広嗣、地主神
境内社 / 天神社、祖霊社
境外摂社 / 比売神社
別社 / 赤穂神社
所在地 / 奈良県奈良市高畑町486
(新薬師寺南門の左)
参拝日 / 2023/11/30

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